Aug.2015

6. ラインの渡し



アウトバーンを西に走り,マインツという大きな町を過ぎた頃,予報通りに二度目の雨が上がった。いよいよ,助手席のドレミの出番である。今回はナビを活用することにして,細かい地図は準備していない。妻が使うのは,慣れないポータブルナビと,ドイツ・オランダ全図一枚,それにガイドブックの市街図だけだ。

最初の行き先はライン下りである。

ライン川はスイスアルプスに源を発し,ドイツとの国境を西進したあと,広大な農地を潤しながらフランスとドイツの国境を北上し,ドイツ国内に入る。そしてここ,マインツで東から合流するマイン川に押されるようにクランクして,再び北に向かい,ルール工業地帯に水資源を供給する。やがて国境を越えてオランダに入ると,熊手のように無数の支流,運河に分かれて北海に達する。言わばオランダ自体がライン川の巨大な三角州なのである。この日の昼前に目的地に決まったデルフトもその支流の一つニューウェ・マース川の河口に近い。したがって,ボクたちの旅の前半はライン川を中流から河口までたどる旅にもなる。

フェリーはだめでしょう

とりわけ,ビンゲンからコブレンツまでの区間は,狭隘な渓谷沿いに川は流れを速め,以って両岸に美しい景観を作り出している。そして聳える崖の上に古城がいくつも残っている。ライン川クルーズでも一番の人気スポットらしい。

カーナビの目的地はその中でも比較的入口から近い町に予約したホテルに設定してある。レンタカーの待ち時間,暇に任せて予約サイトを検索していると,バッハラッハという町の近くにある二つ星ホテルが朝食付き80ユーロと出ていた。間違いかと思ったら,どうやらその予約サイトでは,当日になって空室が残っている宿泊施設が特別料金を設定するらしい。写真をみるとあまり冴えない建物だし,80ユーロはボクたちの一泊の平均予算からみるとかなり高めだが何しろ二つ星がこの値段である。

いきなりゼイタクしてみるか。
「…みるかあ♪」

…と,言うわけで,サッカー場のスプリンクラーを眺めながらポチった(webサイトの予約ボタンを押すこと)宿なのである。

だが,このままカーナビ任せにしていると,高速道で一気にアプローチする道になる。時間はまだまだあるし,雨は上がったので,ライン川沿いを古城でも撮影しながらのんびりアクセスしたい。いつものことだが,ここからはドレミのナビゲーションとボクのカンで走る。直進を指示するカーナビに逆らって右にウインカーを出し,ビンゲン付近の名前のよく分からないインターを流出した。たちまち,カーナビが高速に戻る道を探索しては矢のような指示を始める。ボクたちは,方角だけを頼りに,ライン川沿いを目指して,右に左にローカルの道を突き進んだ。ナビは嵐のように警告をしゃべりっ放し,道はときには行き止まりだったり,あらぬ方向に向かったりして,Uターンを余儀なくされたりもする。

だが,ちょうど川が直角に北に進路を変えていると思われる付近に向かっているときに,突然,ナビが「このまま直進」と言って大人しくなった。しめしめ高速に戻るのを諦めたらしい。…と,ほっとしたのも束の間,小さな街角を何度か曲がらされた後,

「300メートル先,フェリーに乗ります。」

…と,言うではないか。

…ダメでしょう, フェリーはダメでしょう。

料金とか時間とか分からないし,車検証なんか出して,切符買わなきゃならないでしょう。向こう岸に行くなら行くでもいいけど,さっと渡れる橋に案内してくれなきゃぁ。

ボクは石畳の小道にオペルの頭を突っ込んでUターンした。もう少し下流に回ってみよう。また文句を言い始めるカーナビの音声をミニマムに下げて,左岸(西)の,高速と川の間の狭い地域に香車のように突っ込んだ。あたりは高級住宅街で,夕方になって交通量は激しく平均速度も速い。どうやら,マインツやビンゲンのベッドタウンになっているようだ。住宅街と駅と高速から来る道の五差路で車がぺしゃんこになるような事故が起きていて,パトカーが交通整理している。帰宅を急ぐ車の列の中で,なかなか停車もままならない。ようやく小さな丘のバイパスに一台分の駐車スペースを見つけて車を寄せた。


首が痛いほど見上げた真上に古城が聳えている。振り向くと対岸にも古城が見える。そして眼下に流れるライン川の手前に線路,さらに高速国道が見下ろせた。五差路で間違えたわけではない。要するに左岸には切り立った渓谷とラインの間に高速道と線路しかないのである。対岸は比較的,車の流れも緩やかに川沿いを走っているのが見える。

なるほど対岸は川の流れの内側である。堆積作用である程度の平地がある。左岸は外側なので崖になる道理だ。だが,ボクたちはそれを問題視していなかった。どちらを走るかは,古城や夕焼けの見え具合などを見ながら,現地で決めればいいと思っていたのである。再び高速道をあきらめたカーナビの画面をスクロールしてみると,果たして進路が川の中を点線で渡っている。疑いもない。これもフェリーだろう。ここでようやくボクもドレミも重大な事実に気付いた。

ライン川に橋がかかっていない

車で橋を渡るには高速道でマインツまで戻るかコブレンツまで行くしかない。どちらに行っても往復100キロはあるだろう。ここはとりあえず,高速を使って宿に行き,対岸に渡りたければ,それこそ船で渡るか,明日,コブレンツ経由で回り込むか考えることにしよう。再び車を返して,五差路に向かうと,カーナビのヤツが「ほれ,見たことか!」と言わんばかりに高速のランプを案内し始めた。

EOS 5D MarkⅡ+ EF70-200mm f/2.8L USM

高速道に戻って10分も北上すると,交通量もがくっと減って,道路もほぼ一般道に近い状態になった。古城がある場所には簡単な駐車スペースも設けられている。

見上げるのは,崖と言っても半端な崖ではない。暴れるライン川が狭い谷間(あい)で,何万年もかけて削った崖である。さらにその斜面に作られたこのブドウ畑の凄みはどうだろう。手積みの石垣が網の目のように延々と続く。斜度が45度もありそうな畑すらある。日本や中国の棚田や段々畑を切り拓いた先人にももちろん頭が下がるが,このブドウ畑は規模も困難さも桁外れである。開拓の苦労もさることながら,農作業の苦しさはいかばかりだったろう。そして時を超えて,このブドウ畑はこうして今も現役である。そればかりか北限のブドウ畑として,ワインの一大ブランド産地になっているのだ。

ボクがカメラを構えながら,自然と人間と双方の築いた驚異に感動していた頃,車ではカーナビをスクロールしたドレミが小さな悲鳴を上げていた。道順を示す線が,バッハラッハを通り過ぎたところで,またもや点線となって対岸に渡っていたのだ!

慌ててサイトの予約を確認してみた。二つ星ホテルは対岸の町にあった。予約する際には町の名を入力して検索するが,表示される空室リストは「バッハラッハの宿」ではなく「バッハラッハ付近の宿」である。近くの町が一緒にヒットしても仕方ない。確かめなかったのも悪いが…

橋のない川の対岸とは聞いてないよぉー。

バッハラッハだと思い込んでいたので左岸を来た。対岸だったなら,作戦開始前のマインツですでに道を選び間違えていたことになる。

「どうしよう」

行ってみるしかないだろう。車を置いて船で渡るか,これからコブレンツの橋まで行って戻るか。

不安を払拭できないまま,ナビ画面の点線の場所が近づいた。

「右方向です。そのあとフェリーに乗ります。」

ナビが淡々と言う。右には川しかない。こんなところにフェリー埠頭があるものだろうか。直前のスペースに車を止めると,出航時間を示すらしい看板があった。船賃の表示はない。後続車が二台,スピードを緩めないまま猛然と坂を下って行った。出航時間が近いのだろうか。さらに後続の車が遠くに続いて見える。

ままよ!!


オペルを急発進させて坂に飛び込んだ。道路はすぐに終わっていて,先端はコンクリートではなく鉄板でできていた。鉄板にコンパクトカーがやっとの小さなスペースが残っている。そこに車を入れると同時に後ろで鉄の柵が閉まり,後続の車を坂道に残したまま,ついっと鉄板が岸を離れた。ナビが言っていたフェリーとはこのハシケのことだったのだ。


ジーンズにキャップ,黒かばんを胸のあたりに袈裟掛けしたいかにもなオヤジが,前方の車から順にコインを集めている。どうやら料金もそういう金額のようだ。ほっとしたら,急にライン川の上にいることが実感された。

「これってライン川クルーズじゃん」


あわてて5Dを手に船べりに走ろうとすると,ドレミの方がひと足早かった。

EOS 5D MarkⅡ+ EF17-40mm f/4L USM

おーい!2ユーロ50だってよー。

中州にも古城が見える。これを豪華客船でライン下りしながら見た日本人は多いだろうが,ハシケから眺めた人は少なかろう。

EOS 5D MarkⅡ+ EF17-40mm f/4L USM


ボクが思わず口ずさんだのは,ローレライでも矢切の渡しでもない。「さびしんぼう」に全編流れる「別れの曲」である。尾道から向島への渡船に乗ったとき,凪いだ瀬戸内海から,20代だったドレミの髪を乱して吹く風の心地よさを思い出していた。


渡船クルーズの時間はあっけなく終わった。


帰国後に現像して初めて見つけたのだが,渡船の壁のいちばんいい場所にボクたちが泊まる二つ星ホテルの看板が出ていた。


このときのボクたちは,看板のことはもちろん,まだ,名前も知らないこの街の,驚くばかりの美しさを知る由もない。

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