Aug.2015
12. 北海へ
悪夢のようなスーパー買い出しから一夜が明け,ノイスにはまこと平穏な朝が来た。朝食が準備された部屋に降りて来たボクたちは思わず歓声をあげた。窓から差し込む朝の光,窓辺に赤い花,陶器のコーヒーポットからは湯気があがっている。試練は昨日まででおしまい。それは明るく穏やかな一日を予感させるような光景だった。
ノイスの人々
まだ,顔を会わせていないこのホテルの女主人のセンスによるものだろうか。エレガントな白髪の老婦人を想像したが全く違っていた。食事のときから,廊下を行き来していたピンクのタンクトップにホットパンツ姿の若い女がその人であった。モップとバケツを担ぎ,リネンをまとめてくくった白い包みを足でドリブルしながら階段を下りて来て,屈託ない笑顔で挨拶する。想像とは違っていたが想定内ではある。困ったことには英語が全く話せない。
チェックアウトの際,「クレジットカードを処理する機械が壊れているので,支払いを現金でしてほしい」という彼女の頼みは何とかドレミに通じた。だが,ボクにもひとつ彼女に頼みごとがあって,それがどうしても伝わらない。彼女はボクが何かクレームをつけているのだと誤解して困っている。仕方ないのでメモ帳とボールペンを借りた。
あなたの友だちに「ありがとう」と伝えてくれ。
今度は通じた。
彼女はとても喜んで笑った。
せっかくだから,このまま高速に乗ってノイスの町を去ることはせず,ゆうべ閉店時間になってしまったスーパーに行こうということになった。
その前にガソリンスタンドにも入ってみた。旅先では時間に余裕のあるときに給油しておくのが鉄則である。
コルサはディーゼルではないが,ガソリンだけでも三種類ある。ふと見ると,偶然,前の車が5ドアのコルサだったので,給油中の男にどれを入れているのか聞いてみた。
「それは新型だな。わからない。ちょっと車検証を見せてくれない?」
…と,英語で答える。
このお兄さんである。じっくりと車検証をめくり始めた。分からなければ,スタンドの人に聞いてみて,それでもダメなら,毎度のことではないのだから,いちばん高いハイオクにすればいいと思っていたところが,この展開では断るわけにはいかない。5分ほど待った頃,ようやく車検証を示しながら彼が言った。
「あった!ほら,E10って書いてある。」
そして,車検証を返すと慌ただしく去って行った。ラフな格好をしていたが,たぶん,出勤途中だったのだろう。
ありがとう。厳格にしてお人好し,言い方を変えるとお節介。彼こそがドイツ人である。
スーパーに到着。
ドレミは研究に余念がない。
ドレミによれば,ハリボーはドイツだけでなく,アメリカでも人気のグミらしい。ゆうべスーパーを探しているとき,彼女は,偶然,ハリボーの大きな工場に気付いたと言う。ここもルール工業地帯の一部なのである。
「ねえ,きっとノイスが世界中のハリボーのふるさとだよ。工場の写真撮りに行かない?」
ごめん被る。また,あの螺旋地獄に突入するなんてまっぴらである。ノイス観光はこれにておしまい。
高速に乗ると,ノイスはもうデュッセルドルフ近郊であることに気付いた。ゆうべはボンから夢中で走ってきたが,ずいぶんの距離を来ていたものである。
ここで初めて渋滞に遭った。中央分離帯ぎりぎりに寄せて,後ろから来たパトカーを通した。どうやら事故のようだ。
幸い,すぐの場所だったので10分ほどで抜けられた。
30年前と違って,EU内の国境はまことあっけない。道路標識が変わっているので,いつの間にかオランダに入っていたことに気付いた。
行き先の地名がますます読めなくなった。
ゆうべ懲りたので,今回の旅ではもう節約モーテル探しはやめることにした。とりあえず今日は,他に予定が何もないから,折り返し目的地のデルフトで泊まることにして,ホテル検索サイトにアクセスするため,パーキングに入ってポータブルWi-Fiのスイッチを入れた。
「オレのコルサに何をする!」
…という楽しいコマーシャルがあった。日本ではトヨタの小型車名である。商標登録はトヨタの方が古いので,もしパクったのだとしたらオペルの方だ。
運転席の腰サポートクッションは日本から持ってきた。ここ10年くらいで買い漁ったあらゆる腰痛グッズの中ではっきり効果があったのはこれだけである。ちなみに,カーショップで買ったドイツからの輸入品なので,はるばる里帰りしたことになる。
ドレミは助手席で真面目に宿を検索している。
「あったー♪デルフトの町の真ん中に,その名もグランドカナル!!」
いいじゃん。そこにしようよ。
これまでの経験からこの手の宿は老舗ホテルが近代化について行けず,潰れる寸前あるいは潰れてからようやくプライドを捨て,最低限の設備リフォームで,格安ホテルとして生き残ったパターンが多い。立地と味わいは最高,快適さには難ありだが,水回りだけは安物だけど新しい。…まさにボクたちのためにあるような宿である。
「問題は駐車場。近くに公共の駐車場あり。14€なんだけど。」
ふつうはここでアウトである。だが,考えてみると運河の町の真ん中にある老舗ホテルに駐車場がないのは自然なことかもしれない。サイトに掲載されているレンガ造りの写真も感じがいいし,何よりこの立地を考慮すると14€を加算しても安い。駐車場を見つけるくらい真夜中にスーパーを探すよりはマシだ。
オッケー,そこにする。
「あいあいさー♪」
国境を超える前は工業地帯だったのが,オランダに入ったとたん,美しい湖水地方の風景が両側に続いている。そしてボクは見た。
高速の上をツルが大きな翼をザクザクと羽ばたかせて横切って行くのを…。
寝とぼけていて見逃したドレミが疑いの目を向ける。ぜったいにサギや大カモメなどではない。飛び方が違う。長い首を優雅に伸ばして羽を広げていた。美しいだんだら模様がまだ目に焼き付いている。
撮りに下りるか。
…だが,7Dもサンヨン(300mmの望遠レンズ)も持って来ていない。デルフトに宿を取ってしまったので,時間も限られる。
「いいよ。行ってみようよ。その代わり,インター降りたら外のテーブルでランチね。ああ,お腹すいてきた。」
でも…と,ドレミがガイドブックを見ながら,フェルメールの描いた「デルフト風景」は,デルフトにはないと言う。有名な「真珠の耳飾りの少女」とともにハーグのマウリッツハウス王立美術館に収蔵されている。
高速道路の会話
ハーグはデルフトの少し先にある大都市だが,確かに先に行って絵を見てから実景を尋ねるのが順路だろう。
「それからね…」
デルフト行きが決まって,ドレミの周辺研究も進んでいる。
←ドレミ撮影オランダ高速風景その1 「吊り橋」
「ハーグの先に北海に面したスヘフェニンゲンっていうリゾートビーチがあるんだけど…。」
それはパスかな。北海は行ってみたいんだけど,リゾートビーチっていうのはどうもね…。興味ない。
←ドレミ撮影オランダ高速風景その2 「曲がった送電線」
「でも,そのリゾートには世界有数のヌーディストビーチがあるって書いてあるよ。」
な,何ぃー!!!!
←ドレミ撮影オランダ高速風景その3 「新しい風車」
ぎゅっぎゅーん!(加速)
「ちょ,ちょっとシュウ。ここはオランダだから,速度無制限じゃないよ。気を付けて!!」
泳ぐ!
「え?」
今日中にその何とかニンゲンまで行って泳ぐ。
「ツルは?」
やめた。
「え,えー!?じゃ,マウリッツは…」
明日にする。やっぱり風景画は先に実景を見てからじっくりと作品鑑賞するのが王道だな。
「あららら。言ってることがさっきと180度違う。シュウ,エッチなんだからぁー」
な,何を言うか!ワタクシはぁ,ヨーロッパにおける文化としてのクロスオプショナルについて研究するためにビーチを見学したいなのである。よこしまな心は毛ほどもありませんえんでしょう。
約束通り,お外でランチはするぞ。さ,好きなものを注文してくれ。
「ぶー,ここ,パーキングの売店じゃない。」
でも,ほら,オランダ料理っぽいぞ。
うーん,うまそう♪はい,お待たせしました。
外のテーブル!!
「こ,これどうやって食べるのかしら…」
あ,5分以内に食べてね。すぐ出発するから。別に早くビーチに行きたいからってわけじゃないけど。
「たいへんだー。がぶっ!!」
急遽,オランダを真っ二つに切り裂くように横断して北海へ急げ!!