Aug.2015
14. 運河の街
ボクはたいへん,たいへん疲れていた。追い込み仕事の徹夜明けに機上の人となり,渡欧して初日は花火,2日目は中世の街並み撮影,3日目はモーテル探しで,ろくに寝ていない。そしてこの日は,国境越えのロングドライブでオランダを横断した。いやはや,邪な目的があると男はタイヘンな根性が出るものだが,反動で精根尽きた。全身が綿のように感じる。
幸い今夜の宿はもう予約してある。デルフトはフェルメールゆかりの町というだけで何かあるわけでもなさそうだし,全く期待もしていない。ただ,シャワーとワインとノリの効いたシーツがあればいい。住所を入力したナビに従って何も考えずに車を走らせ,やがて高速を下りる。
幹線道路から町に入ったところがこの景色である。何やら休息を許さないドラマチックの匂いがしてきた。細い路面電車も珍しいが,それを撮ろうとして車を停めたわけではない。振り返ると…
な,何なんだ,これはー!!
さらに宿に向かって,運河沿いの道に入る。
あまりの美しさに疲れていることをすっかり忘れてしまった。
そして,運河にかかる橋詰に立つホテルグランドカナル…リゾートビーチで迷い込んだ映画の世界がまだ続いているようだ。
ドレミがチェックインに走った。大きなトランクをフロントに預け,市営駐車場の行き方を尋ねた。日没までにはまだ時間がたっぷりあるが,こんな美しい街並みを見せられては気が急くのも仕方ない。
マエストロカードがない
教えられた道を曲がり損ね,一方通行に苦しみながら元の道に戻る途中で別の有料駐車場を見つけた。
「ここでも良くない?」
少し割高だが宿には近そうだ。何より時間が惜しい。運河の街並みが夕日の斜光に映えてますます撮り頃になっている。
駐車したはいいが,どうにも料金支払い機の使い方が分からない。20分ほども,代わる代わる挑戦していると,来た来た…
「めあいへるぷゅー?」
…と,見かねたお人好し男が機械を操作してくれる。
「ここで,ほら英語を選ぶんだよ。」
そんなことはとっくにわかっている。
「はい,じゃ,ここでマエストロカード入れて。」
は?マエストロカード?何ですか,それ。…VISAかMASTERならあるんですけど。
「え?じゃあだめかな,えっと…ほら,このマーク。他のカードは使えないって書いてあるよ。」
えー!?
…確かにマスターカードをパクったようなデザインのマークがついている。 どうやらマエストロ(指揮者)カードは,オランダ(もしくはデルフト)ではメジャーなデビットカードらしい。別に遮断機があるわけでもないので民間駐車場はあきらめ,急ぎ車を出した。
市営駐車場は,町はずれにある近代的なショッピングモールの地下だった。負け惜しみではないが,ガラガラで安くて,断然セキュリティに優れている。しかも,VISAも現金も使える。
ボクらはホッとしてハイタッチした。全く想定外だったが,こんなにも美しい街で過ごす夢のような時間のこれがスタートである。
倉敷や佐原とは少し違う。
町並みが生きている。古い建物はすべてオリジナルで,しかも現役である。あちらこちらで,職人がペンキを塗り直したり,レンガを積み直したりしている。個人レベルで街並みを守っていることが伺える。
仕事帰りの人,自転車で買い物に行く人…ここには観光だけでなく生活がある。
運河に係留された船の上にテーブルを広げているレストランがある。どうせならあそこで夕食にしようと意見が一致した。そのまま夜景を撮りに行けるように,宿で準備してから出かけよう。
「ちょっと,待って。洗濯物干してからでいい?」
もちろん。考えてみれば,デルフトはフランクフルトより北にあって西にある。だから,日没までの時間は十分にあるのだ。ボクも呼応して,バッテリーやポータブルWi-Fiの充電を始める。洗濯にはボクの役割分担もある。シャツなど多少分厚いものを絞る係である。これが強すぎると繊維を壊してしまう。弱いとなかなか乾かず,翌日,いつまでも車の後部座席に干しっ放しになる。なかなか加減が難しい。絞り8年である。
洗濯&充電は旅につきもの,あうんの呼吸で連携プレーである。アリゾナのモーテルでも,釧路のライダーハウスでも,アンドラの三ツ星ホテルでも…旅の宿ではいつも同じだ。
ダッジビア
さて,水上レストランだが,ひとつ困ったことがあった。行ってみると,船を持っている店が,ギリシア料理専門店とアメリカンハンバーガーレストランの二つしかなかったのだ。
ギリシア料理に興味がないわけではないが,オランダの運河でギリシア料理かよ…と,いう問題がある。むしろきっぱりハンバーガーの方が潔いかもしれない。
外国人旅行者が,武家屋敷の保存地区で和なディナーを楽しもうと思ったら,中華とイタリアンしかなかった状況をご想像いただきたい。選択肢は三つ,どちらかを選ぶか,それとも船を諦めるか…これはかなり悩ましい問題である。
「やっほー♪シュウー♪」
あ!ドレミ!何,勝手に決めて座ってんだよ!
「だって,あたし元ニューヨーカーだもん♪」
1年ちょこっと住んでいただけで,何がニューヨーカーだ。
どうせ,サンプルケースの巨大チョコレートケーキに誘われたに決まっている。
ま,とにかく喉がカラカラだ。
ぅぐぐぐぐぐ…くぅー!!
来た来た。まずそー(笑)
チーズバーガーとラムバーガー。オレンジ色はフライド・サツマイモである。
アメリカンハンバーガー屋だからか,子どものように若いアルバイト店員もそこそこ英語を使う。
「今度はまた,別のダッジビア(オランダのビール)をくださいな。」
二種類のオランダ産ビールを交換しながら干したあと,妻がそう注文したが,もう他のオランダのビールはないと言う。
いいよ,地ビールじゃなくて,ハイネケンでも…。
ボクは困っているアルバイト店員にそう言ってあげた。2年前にヨーロッパを旅したとき,スペインでもフランスでもビールと言ったら緑の星のハイネケンだった。旅情も手伝って,そのあっさりした味が気に行ったボクは,どこでも注文に困るとハイネケンを頼んだ。帰国後にその味を懐かしく思ったが,どういう関税のしくみになっているのか,日本ではとても気軽に手がでない値段で売っている。オランダに来たら思う存分ハイネケンの飲み溜めをしてやろうとの魂胆があった。
「ソーリー,ハイネケンは置いてないんです。」
えー!?
実はこのレストランだけではない。今回,南オランダを旅する間,とうとう一度もハイネケンを置いてある店に出会うことはなかったのだ。言うまでもないが,ハイネケンはオランダのビールである。アムステルダムはもちろん,フランスでもスペインでもハイネケンのない店を探す方が難しい。ハイネケンはヨーロッパの顔だと思っていたのに,本家オランダでも南のフランドル地方では置いていない店が多い。
理由があろう。オランダ南部ではベルギービールに押されているのではないだろうか。気軽にベルギービールが飲めるこの地方の人は口が肥えてしまって,ハイネケンを置いても売れないのが実情と推測される。
「ベルジンビア(ベルギービール)ならたくさん種類があります。」
ハンバーガー店のアルバイトも言う。このあとオランダからベルギーに旅する予定である。ベルギービールのうまいことは聞いているが,国境を越えるまでその楽しみはとっておきたいと思っていた。
ベルギービール以外にはもうないの?
「バドワイザー」
他に選択肢はなさそうだった。ボクらは,オランダの運河の上,アメリカンハンバーガーとバドワイザーで乾杯した。もう,すっかり酔っぱらっていて,楽しければ何でもいい状態ではある。川面を渡る風は涼しく,パーカーを着ても肌寒いくらいだった。東京では36度を超えた猛暑の日である。
ドレミのシメ…あのハンバーガーとビールの後である。彼女の胃袋の構造を見てみたい。もしかしたら,スィーツ専用の袋を備えたツインストマックなのかもしれない。
ボクは胸が悪くなりそうだったので,その皿からなるべく目を逸らした。そして川面を眺めながら冷めたサツマイモフライで三杯目のビールを飲み干した。
さあ,町の夜景を撮りに行こう。
酔いと疲れで足はほどよくもつれている。