Aug.2015

16. 鎖国と十字架とターバンと…



一夜明け,窓から早朝の運河を見下ろす。


名探偵ポワロはベルギー人なので,パンとコーヒーとハムだけの簡素な朝食を好んでいる。小説には彼がイングランド風の朝食を揶揄するシーンが頻繁に出てきて笑いを取る。

「どうしてイギリス人は朝からベーコンや目玉焼きなんか食べられるのだろう。信じられない。」

…といった感じだったと思う。


クリスティの頃もボクが20年前に旅した頃もオランダやベルギーの朝食は確かにポアロの愛したコンチネンタルだった。

しかし今ではこんな田舎の老舗ホテルでもホットソーセージやスクランブルエッグ,それにフレッシュ野菜が食べられる。イングランド風と言うより世界中アメリカンという感じだろうか。


オランダ自転車事情


宿にトランクを預けて街歩きに出る。昨夜は酔っ払ってやたらめったら行き当たりばったりに歩いてしまったので,今朝はちゃんと地図を見てから目的地を目指す。

EOS 5D MarkⅡ+ EF17-40mm f/4L USM


話には聞いていたが,オランダ人は本当に自転車が好きだ。町中のママチャリも街道を走るツールドフランスみたいないでたちのサイクリング車の数も格段に多い。ドイツに比べても多い。昨日のビーチにしたって,はるか遠くの駐車スペースに車を停めて,あとは積んできた自転車でアクセスする人が大勢いた。

もちろん,ルールやマナーは日本とは比較にならない。欧州と比べたら中国や日本は自転車無法地帯だ。ここでは自転車は文化である。利用者の意識からして違う。買い物に行くママチャリのおばさんでも,きちんと通行帯や信号を守り,右左折時にはハンドサインを出す。ドライバーから見ても,歩行者として歩いていても自転車は安全な交通機関である。

X-E1 + XF27mm f/2.8(ドレミ撮)

EOS 5D MarkⅡ+ EF70-200mm f/2.8L USM


デルフト風景

いよいよあのゲートをくぐった先が目的地だ。

X-E1 + XF27mm f/2.8(ドレミ撮)

EOS 5D MarkⅡ+ EF17-40mm f/4L USM

フェルメールが描いた「デルフト風景」の景色が変わらずに残っているという運河の入口である。


さあ,この美しい運河の街デルフトを後にして,今度は絵の「デルフト風景」を観にゆこう。

自分土産

デルフトを離れるとき,町はずれに大きなスーパーがあるのを見つけた。ボクは乾燥ポルチーニなどの乾物,ドレミは言うまでもなくチョコレート研究の用でスーパーは外せない。地物のよいお土産が見つかることもある。


カートを使おうとすると,チェーンでつながれていて,客はみなコインをセットしてチェーンを外している。カートを返すとコインは戻る。適当なコインで試してみようと思ったが,壊すといけないので,入口のサービスカウンターで尋ねた。

びっくりするようなキレイな顔の娘が

「ああ,コインがお入用ですか?」


と,だいたいそんなようなことを言いながら,しゃれたキーホルダーのついた専用コインを手渡してくれた。買い物を終え,礼を言ってコインを返そうとすると,またとびきりの笑顔で,

「それはあなたのものです,さしあげますよ。」

…たぶん,そんなことを言っている。彼女の台詞をキレイなことばで意訳しているのは筆者の好意の表れである。もちろん,それほどのコストがかかる品ではないだろうが,明らかに,二度とは訪れるチャンスのない外国人旅行者が返してよこしたものを,再び手渡すメリットはないだろう。このコインはボクの唯一の自分土産になった。

ところでようやくわかってきたが,どうやら8月はオフシーズン。それがかえって道路工事的にはオンシーズンとなるらしい。ブリュッセルやフランクフルトはもちろん,ブレダやコブレンツのような小さな町から郊外まで,各地で工事に苦しめられた。渋滞や景観の問題もあるが,何よりナビの案内が全く使えないのが困る。


ここハーグの文教地区でも,車が歩道や緑道に誘導されるほどの大工事真っ盛りだった。


さらに慣れない駐車帯で,地元車とのスペース確保合戦を勝ち抜かなければならない。


これだけ苦労すると,目的地にたどり着いたときの感動は大きい。


デン・ハーグ マウリッツハウス王立美術館



2年間の大改装工事を終えたばかり,「真珠の耳飾りの少女」をはじめ,日本などに出稼ぎに出ていた売れっ子スターたちも揃って帰郷している。


これが「デルフト風景」


東インド会社

島原の乱で三万七千の農民が死んだ。三万四千は戦死し,生き残つた三千名の女と子供が,落城の翌日から三日間にわたつて斬首された。(島原の乱雑記/ 坂口安吾)

女たちは弾丸を溶かして作られた粗末なロザリオを胸に抱きながら喜んで首を刎ねられていったという。ローマカトリック教会は彼ら農民たちを殉教徒と認めてはいない。島原の乱は,長く続いた戦乱と重い年貢に苦しんだ末の農民一揆だったからという理由である。

宗教で結束した反乱軍は幕軍を相手によく戦った。むしろ乱の初期は一方的に勝っていたのである。彼らがキリスト教徒として解放されることはなかったと思われるが,一揆としては税の減免と引き換えに幕軍の顔を立てながら穏やかに終結する道が双方から模索されていたに違いない。

戦況とバランスを一変させたのは,オランダ艦隊による艦砲射撃だった。原城の主要防御施設を沈黙させた上に,砲を幕軍に貸与し,勝敗を一方的にした。その結果が幕軍による大量虐殺につながる。

島原半島は当時の住民が全滅し,三万七千の遺骸のほとんどは放置された。現在の住民は乱の10年後,藩令で移住させられ,白骨死骸を埋葬した農民たちの子孫であるらしい。ボクたちは三度原城を訪ねている。原城の沖合に白洲と呼ばれる浅瀬があって,その堆積物は原城でもたやすく拾うことができる。リソサムニュームという石灰藻だが,まるで白骨片にしか見えないその石に農民たちの無念を重ねる人は多い。

言うまでもないが,プロテスタントを信仰するオランダにとって,先着したフランシスコザビエルが布教したカトリックの勢力は目の上のたんこぶだった。島原の乱はその教徒と教義を一気に葬るまたとないチャンスだったのだ。その意味で農民たちは間違いなく殉教者である。また,布教より利益を選んだ東インド会社にとって,乱の鎮圧に助力することは,幕府の信頼を勝ち取る最大のイベントであった。結果として,東インド会社は鎖国中,唯一の公認貿易相手国の座を手にしている。

フェルメールの頃,オランダには世界中から富と珍しい風物が集まった。ことさら,他の国では手に入らない極東で鎖国している島国の品物は珍重されたことであろう。天文学者や地理学者が着ている衣装は,日本の半纏,もしくはそれを模してオランダで作られた外套である。


「真珠の耳飾りの少女」は肖像画ではないらしい。フェルメールが珍しい外国の風物をモデルの少女に纏わせて自由に描いた作品である。ターバンはトルコの民族衣装のようだ。来ているのはもちろん,当時流行の日本風半纏である。

EOS 5D MarkⅡ+ EF17-40mm f/4L USM


「真珠の耳飾りの少女」が日本で公開されたときは,行列して立ち止まることができなかったそうだが,ここでは少女と二人きりになる時間が3分くらいあった。常に10人くらいの鑑賞者がいたのは,レンブラントの部屋だった。

午後はそのレンブラントゆかりの街に行くことにする。


その前にマウリッツのカフェでランチタイム。


「ハーグ独特のスイーツってありますか?」
「はい,こちらのアップルパイでございます。」

うっへえ!!これが昼ごはん?

あ,ボクは朝たくさん食べたからコーヒーだけでいいや。

さあ,いよいよフランドルの旅へ。

EOS 5D MarkⅡ+ EF17-40mm f/4L USM

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