Aug.2015
20.ゴッホの故郷
朝が来た。当時もこの旅行記を書いている今も,すでにいろいろなことがありすぎて何日目の朝なのか定かでない。駐車場全景と工事で全面通行止めの跨道橋である。南へ向かうので,また高速の向こう側に行かなければならない。
昨日,通れた踏み切りが今日は渡れない。ブレダーだけでなく,およそ訪ねた場所がどこでもこの状態であった。これがヨーロッパの夏休みなのだろう。
ナビは使えない,交差点はこればっかり。
おまけに頼りのナビゲーターは「馬ー!!」とか緊急停止を要求したかと思うと,走って会いに行ってしまう。なかなか街を抜けられない。
Dank u wel(ダンクュウェル)
ボクらはベルギーとの国境付近にあるズンデルトという町に向かっている。印象派の画家ゴッホの生誕地で,出掛ける前に決まっていた唯一の目的地でもある。ゴッホの絵は人並みには好きだが,生誕地を訪ねたいと思うほどの大ファンでもない。
実は半年ほど前,「方面だけでも決めてほしい」という妻に促されて,インターネット検索しているときに,ズンデルトの写真が目に止まった。それは電車やバスを乗り継いでたどり着いた学生の冒険旅行レポートのようなブログで,ボクが見たのは,スマートフォンで撮影された何でもない途中の道を紹介するための写真だったが,その景色がとてもとても気に入ったのだ。
妻と二人,その風景に身を置いてみたいと思った。
ズンデルトが近づくと,道路の両側にレタスらしき葉物を中心にした美しい畑の風景が広がってきた。ボクにはそれがいかにもゴッホらしい風景に思えて,どうしても写真を撮りたくなった。しかし郊外のこうした道は時速100キロ近いスピードで車が行き交っているので,ちょっと脇に寄せて停めるというわけにはいかない。200メートルほど行き過ぎたところに横路を見つけ,その角にあったスペースにオペルを停めた。そして5Dに17-40(広角ズームレンズ)を装着し,小走りでさっき見たスポットまで歩道を戻った。
その姿をちょうどレタスを収穫していた農夫が見つけた。この道を徒歩で来る人はきっと年間十人もいないだろう。しかも外国人である。不審者と思われていることは明らかだった。ボクは彼に手を振り,思い切り大袈裟にカメラを構えて,風景の撮影をアピールした。
通じた。
彼はニッコリ笑って手を挙げた。…ばかりか,いっしょに作業していた娘さんと奥さん(と思われる)に声をかけて,レタスを放り上げてリレーするパフォーマンスを披露し始めたのだ。
「ほっ!ほっ!ほっ!ほっ!」
鮮やかにレタスが宙を飛んでコンテナに収納されていく。たぶん,「これを撮れ」ということなのだろうが,このレンズの画角ではほんの小さくしか写っていない。
パフォーマンスは集中力と体力を使うらしく,ボクがシャッターを切った気配を待って終了した。ボクは満面の笑顔で両手で手を振ってから,200メートルの彼方に置いた車に全力疾走した。そして車に待たせていた助手席のドレミに
「ありがとうって何て言うんだっけ?!」
…と,聞いた。
「え?だ,ダンクュウェルだけど…」
オランダに入ったとき,二人でガイドブックを見ながら,オランダ語の「こんにちは」「ありがとう」「ごめんなさい」を練習したのに,使う機会がなくて忘れてしまっていた。ボクは口の中で何度かダンクュウェルを復習しながら再び200メートルをダッシュした。
当然だが農夫はその不審な行動をちらちらと気にしていた。彼らのそばまで戻ったボクは辺りに響き渡るほどの大声で叫んだ。
「ダンクュウェール!!」
ウケた。
農夫は体をこちらに向けて手を挙げた。サンキューやダンケでは伝わらないものがある。ボクは膝に手を置いて肩で息をしながら,家族に別れの手を振った。
車で走り出すと,間もなく,道はズンデルトの街に入った。
ズンデルト
国道沿いの小さな繁華街に,見慣れたスーパーマーケットの看板があった。デルフトの郊外できれいなお姉さんがボクにコインのキーホルダーをくれたあのスーパーのチェーン店である。
駐車場は40分無料だった。とりあえず,町の様子などを調べるのにまこと都合がよい。
ゴッホの生家がインフォメーションになっている。時間は過ぎているが人の気配はない。…想定内である。
想定内だが,何も調べていないので,インフォメーションに聞かないと,どこにゆかりの地があるのかわからない。せめてガイドマップが手に入らないだろうか。
近くの広場にモニュメントを見つけた。
ゴッホの作品で見覚えのある建物もある。ゴッホの父親が牧師を務めた教会である。彼は一時,牧師になろうとして挫折している。
広場に観光客用の無料駐車場を見つけて,スーパーから車を移動してきた。レンタカーの備品にこんなものがあって,何に使うのか謎だったが,他の車に置いてあるのを見て分かった。駐車場所を探している人に,こうして自分が出る時間を知らせてあげるためらしい。
ゴッホと弟のテオが抱き合うように寄り添った銅像が立っている。
一時間を過ぎたが,インフォメーションが開く気配はない。駐車場を借りた恩義があるので,スーパーで買い物をする。
ゴッホの広場の向かいに小ジャレた店があって,ランチのテーブルを広げ始めた。そうだ,ブランチにしよう。
ミルクたっぷり。
二人で半分こ。
隣席に来た犬連れのカップル。
最初はご覧のように陽気に挨拶したりしていたのだが,そのうちに些細なことから激しい夫婦喧嘩が始まった。全く言葉がわからないのに,なんとか身振りで仲裁に入るドレミ。
「午後には業者が直しにくるんだけど…」と,言いながら,支柱の壊れたパラソルにセロテープをぐるぐる巻いて応急処置しようとする店の奥さん。見るに見かねて,
「紐を持って来なさい。」
…と,ビニール紐でがっちり修繕してあげるボク。
自分たちでもあきれる江戸っ子お節介夫婦。
でも,たまには報われることあり。
さすがにお礼がしたいと思ったのか,会計のとき,店の奥さんがサービスに持ってきた小さな冊子。
ラッキー♪
これこそまさしく,インフォメーションで手に入れたかったガイドマップだった。
店でトイレを借りて,さあ,もらった地図を見ながズンデルト散策に出発!!
ところがどこも期待した田舎の風景ではなく,高級住宅街である。
珍しい卵の自動販売機。
確かにゴッホロードを歩いているのだがちょっとイメージと違う…。
ビンセント・ヴァン・ゴッホ通りもあるにはあるのだが,高級車の並ぶ真新しい家々の道路である。
これは,もう一箇所,ヌエネンという街を訪ねなければなるまい。ヌエネンは若きゴッホがしばらく暮らしていた町で,作品も多く残している。
ボクたちはズンデルトを発ち,国境沿いを東へ向かうことにした。