Aug.2015
21.モザイクの街
国道が何度か町を抜けるうち,車窓を過ぎてゆく街並みの色が変わったことに気付く。オランダのカラフルな建物ばかり見てきた目には,いささかくすんで見えてしまうが,落ち着いたベルギーの街並みはアースカラーの壁とブルーグレーの屋根に統一されていてしっとり美しい。
ズンデルトからヌエネンに向かって東進すると,でこぼこした国境線を何度も越えることになる。
EU統合前の国境緩衝帯の名残りの風景である。かつてはこの前後に国境検問所があり,旅行者も審査を受けた。東側の国に入国するには,路上で半日くらい待たされることもざらだった。日本のパスポートの信用に加えて,検問所では,紙パックの日本酒,セブンスター,100円ライターなどが袖の下として有効で,ボクはよくハンガリーやユーゴスラビアの国境をちゃっかり,地元の車に先んじて通過していた覚えがある。
それも今は昔,ぼぉっとしながら走っていると,国境緩衝帯など気付かないうちに通り過ぎてしまうほどだ。のどかな風景に隔世の感がある。
この近くに統合前から国境を無審査で通過できる街がある。パールレ=ナッサウという舌をかみそうな名前の街で,ベルギーが独立した際,たくさんの飛び地がオランダ領内に残されたままになった。今ではそれがちょっとした観光資源となっている。
「ねえ,せっかくだからちょっと見て行かない?」
妻に言われるまでもなく,ズンデルトからヌエネンへの通り道にあるので避けていく方が難しい。観光地嫌いのボクでも多少興味がある。
パールレ=ナッサウ
そんなわけで,再びオランダ領に戻って間もなく,この美しい街に立ち寄ることになった。
ありがたいことにまたもや街の中心にあのスーパーがあった。カート用のコインキーホルダーを持っているボクは,朝からのロングドライブの疲れから眠気を催していたので,さっそく駐車させてもらって,シートを倒し暫時仮眠することにした。その間にドレミは街の探検に出かけて行った。
ウインドウをコンコンと軽くたたく音に,浅い眠りから目覚めると,妻が買い物袋をいくつも提げて立っていた。
「安かったからシュウのTシャツとか買ってきちゃった。でも,国境線はどこにあるか見つかんないよ。」
ふむふむ。ドレミの場合,目の前にあるものが見えないのはよくあることである。
彼女の案内に従って,車を正規のパーキングに移動してから,ボクも街に出てみた。舗道はいかにも休暇中の観光客で賑わっている。この人たちはいったいいつ仕事しているのだろう。
研究熱心なドレミによると,このセンスの悪いフライドポテト(フリッツ)のキャラクターはベルギーのものらしい。
そしてこちら,派手な壁や窓は明らかにオランダ…。どこに境界があるのだろうか。
車道に金属製の丸い大きな鋲が並んでいるのを見つけたので,ボクは通りがかった観光客をつかまえて英語で聞いてみた。
「あの丸い金属のプレートが国境ですか?」
昼間からビールでいい調子になっちゃってるその男は陽気に答えた。
「車が通っちゃいけないっていう印(マーク)だよ。」
それは,隣にペイントされているゼブラ帯だろう。
「じゃ,国境がどこに引いてあるか教えてくれませんか。」
「国境?何?それ。おいら,昨日からここに滞在してる観光客なんでわかんないんだけどぉ。あははは。」
なれなれしく肩を組んで話す男に何だか無性に苛立った。寝起きだったからかもしれない。顔はにこにこ笑ったまま,日本語で,
「じゃ,この街に何を観光に来たんだよ,でぶちん!」
…と,つい下品な言葉を口ずさみながら,思い切りシェイクハンドして別れた。ドレミが肩をすくめながら苦笑した。
これはもう,公共機関に行って聞いた方がいい。日本のガイドブックに載っていた小さな地図でインフォメーションの場所はすぐにわかった。ドレミがずんずんと先に立って歩いてゆく。
この間,盛んに国境を跨いでいることに二人とも気付いていない。
インフォメーションには両国の国旗がクロスされていて,やはり国境線を見物に来たボクたちの観光客としての正当性を裏付けている。
舗道の青いレンガ,白い十字のペイント,車道の金属鋲,それらがみんな国境を表わしていることを教えてもらうと,今まで気づかなかったのが不思議なくらい,そこら中に国境線が見えてきた。最初に車を停めたスーパーはオランダで,ドレミがTシャツを買った店はベルギーにあった。
国境線
何度もここを通っていて気づかなかった。
通行人の女性たちが不思議そうにボクらの撮影風景を遠巻きしている。
いや,ふつうでしょ!ふつうこうして写真撮るでしょ!(笑)
国境が家に突き当たっている。
当然この家は左半分がオランダで右はベルギーである。住人の国籍は正面玄関のある場所の国となっているそうだが,この家の人はどうなるのだろう。
スーパーマーケットにも国境が通っている。入口は向こうにもこちらにもある。統合前の間接税は商品の置いてある場所によって違ったりして(笑)
車道の中央に点々と打ってある金属鋲もやはり国境だった。向こう側はオランダである。
「あたし,ちょっとオランダに行ってくるねー。」
そう言ってドレミが日傘を差したまま小走りに道路を渡ってゆく。
「どうしよっかな,また,ベルギーに戻ろっかな。」
「ばか!車に気を付けろよ!」
…と,口では言い,やれやれ的な表情を装ってにこりともしないボクだが,心の中ではこんな子どものようにはしゃぐ妻が好きだ。
とりあえず,ベルギーに来たことは確かなのだから,ここまで我慢していたベルギービールを解禁しようではないかということになった。本場のフリッツも食べてみたい。
おっと,危ない危ない。人気店でも,国境の向こうにあるカフェはオランダの店。
きっちり道路の青線の外側,あそこなら確実にベルギーだ。
「おひとつどうぞ」
「うむ,ちょうだいするとしよう。」
ひょえー!!うまい!!やっぱ,ベルギーのビールは圧倒的においしい。しかもカフェで注文しても,日本で買うときの値段の半額で飲める。
おいしいけど,車なのでボクはちょっとずつ味見だけ。
あとはドレミがきゅきゅっと飲み干す。
さあ,まだ昼過ぎ。今からヌエネンに向かっても日は高いだろう。
ボクたちは美しいモザイクの街を後にした。