Aug.2015

22.ヌエネン散策



ポータブルWi-Fiが国境付近では感度が悪い。どちらの国の契約会社の電波も届きにくい。感度の安定している高速のサービスエリアで予約サイトに接続して,今向かっているヌエネンの宿を探したがヒットしない。おそらく,バールレ=ナッサウで見たような共同シャワーの民宿ならあるのだろうが,英語で使えるサイトには登録されていない。結局,近くのエイントホーヘンという大きな町にあるホテルしか選択肢がなかった。


「また,町か…」

車なので,泊まるだけの目的で大きな町に行くのはそろそろ気が重い。おまけにこの時期はどこに行っても町は工事だらけだ。

「これはどうかしら…」

ドレミがエクスペリアの画面を見ながら言った。

「オランダ伝統料理の宿…中心街から外れてるし値段も安いよ。」
「そこだ!!」

伝統料理,郊外,安い!!今,求めている条件がすべて満たされている。エイントホーヘンはヌエネンから30分ほどのところだ。これでゆっくりとヌエネン散策を楽しめる。

高速を下りてまもなくヌエネンの街に入った。中心街はとても小さいが,ズンデルトとは違って,ボクのイメージしていた通りの「いかにも」田舎町の風景だ。

EOS 5D MarkⅡ+ EF17-40mm f/4L USM

ここでもゴッホが住んでいた家がインフォメーションになっていて,今度はきちんと機能していた。車はパーキングエリアに停めればどこも無料だ。ドレミがインフォメーションで観光客用のガイドマップを買ってきた。立派な装丁で少々値が張ったが,オランダ語とフランス語しか案内のない町で,英語のガイドブックを持っていることは心強い。

そのガイドブックには,かつてゴッホがこの地で描いた作品のうち,場所の特定できるところを30か所ほど写真入りで紹介してある。詳しい地図にその場所と順路まで載っている。


マップの1番がインフォメーションのあるゴッホの家で,30メートルほどの広場にあるこの碑が2番である。碑の礎石になっている丸い石は,ゴッホが亡くなったサン=レミの精神病院の庭にあったものが寄贈され,運ばれてきた…とある。



ズンデルトに生まれ,癇癪持ちでわがままだった少年ゴッホは,長じて画商会社の社員としてハーグやロンドンで働くが,どこでも人間関係でトラブルを起こして町を追われる。そしてとうとう最後のパリ支店で会社を解雇されてしまう。



次に聖職者を志望して,牧師だった父の赴任先のエッテンやアムステルダムに学ぶが,これも学業に悲鳴をあげて挫折する。


すると今度は画家になるべくブリュッセルやハーグなどに住処を移す。だが,先々どこに行っても援助者の好意を踏みにじるような行状を重ねた末,人間関係を壊して町に住めなくなるというようなことを繰り返した。



さらにこの間,未亡人に懸想して今で言うストーカー事件を引き起こしたり,モデルとなし崩しに同棲生活したり,娼館通いは数知れず…そちらの方の行状もよろしからず。父の新たな赴任先だったここ,ヌエネンに来たのは,およそ経済的な困窮からである。


この村でも父とは激しく仲違いし,姉や母の意見も聞き入れず,弟テオの援助でただ絵を描き続ける毎日を送っている。しかし結局のところ,ここで油彩やデッサンに打ち込んだことが後の才能の開花につながるわけであるから芸術はわからない 。


先ほどからの写真はすべて,ガイドマップに載っているゴッホの絵ゆかりの地や建物である。まことにつまらない場所ばかりである。

たとえば,ここ…



向こう側の敷地に,かつてゴッホが「馬鈴薯を食べる人たち」を描いた家が建っていた。…のだが,今は当時のものは何もない,無関係の別の人が家を建てて住んでいる。途方もなく何もないゆかりの地なのだ。

だが,ボクたちはこの散策をとても楽しんだ。何でもない田舎の街をたいした用もなくのんびり歩く旅とは何とぜいたくなことだろう。


同じくガイドマップを手に町を歩いているのは,ボクらと前後して到着した初老の夫婦と母子連れの二組だけ。抜いたり抜かれたり,会釈くらいはするが,どう見ても熱烈なゴッホファンではなさそうである 。

EOS 5D MarkⅡ+ EF17-40mm f/4L USM

X-E1 + XF27mm f/2.8(ドレミ撮)


賑やかな場所の方が好きな妻もこの散策は気に入ったようで,珍しく首から提げたX-E1で盛んに写真を撮っている。

「どう?菜の花なめ風車。いいでしょ。」

…とモニタを見せる。「なめ」とは,前景に取るという意味の専門用語で,よくボクが使うのをからかって言っているのだ。

「空バック,リアルな風見鶏」



「一点透視に垂直リズムのソフトクリーム屋」

…以上,ドレミの作品より。


ヌエネンでもゴッホの行状に対する町の評判は悪かったが,生涯で唯一,純愛とおぼしき恋愛事件も起こっている。なぜ「事件」なのかというと,この家に住んでいた当の恋人マルホットが,周囲の反対の声に耐えられず自殺未遂を図ってしまったからである。


ゴッホの悪評は決定的となった。この事件をきっかけに,ますます関係が悪化した父は,その心労からか翌春に発作を起こして亡くなった。
自信作だった「馬鈴薯を食べる人たち」は酷評を受け,ブリュッセル以来唯一の親友ラッパルトとも絶交する。


ゴッホは孤独になった。そしてこの町にも住めなくなった。


「シュウなめゴッホの銅像!!」

いや,待て。オレは前景じゃなくてメインだろ。

ゆかりの地はまだいくつか残っているが,そろそろ楽しい街歩きもきりがないのでおしまいにしよう。明るいがすでに6時半を回っている。


EOS 5D MarkⅡ+ EF17-40mm f/4L USM

オランダ伝統料理民宿


工事中の場所に遭わなかったので,ヌエネンから小一時間で予約した「オランダ伝統料理宿」に到着した。

ん?

何やらこのアメリカンな雰囲気。


もろに高速インターに面している。これは明らかにモーテルを買い取って改造した宿だろう。伝統料理宿という語感から想像していたレトロな建物とはかなりずれている。

それはいい。


だが,レストランのテラス席と宿泊客の部屋はちと近すぎないか。


外からどう見えるのか,ドレミが戸を開けて出てみた。


いや~ん♪

…と,もろにシャワー室までシースルーである。


ま,とにかくお腹がすいたので,ボクたちも部屋から3mのテラス席に移動した。

あまりの混雑に,ウエイトレスは怒ったように,テーブルを巡り,声をかけても外国人の面倒なオーダーにいい顔をしそうにない。


そうこうする間にも次々と地元の客が訪れる。屋内の席は,もうできあがっちゃってる酔客であふれ,駐車場とテラス席の間には家族連れのためにキッズの遊び場と遊具が整備されていてなんとも賑やかである。体裁はともかくとして,この店が超人気のオランダ料理店であることは疑いない 。


ビールはすぐに来たが,この混雑である。料理の方は注文してからありつけるまでにかなりのタイムラグを覚悟せねばなるまい 。


困っているところに,少し軽薄そうだが,陽気で気の良いウエイターが寄ってきてくれた。ボクたちの注文はシンプル。

おすすめのオランダ料理である。

ウエイターはなぜかしどろもどろになって必死に英語で話し始めた。単語がときどきフランス語になる。彼の話を何とか推測するに,どうやらパンケーキがこの店の売りで,オランダらしい料理ということらしい。しどろもどろになっているのは,なぜ,アメリカ生まれ(本人談)のパンケーキがオランダ料理と言えるかを説明しようとしてのことらしい。まあ,日本人がトンカツや天ぷらが何故に和食と言えるかを説明するのに似ている。このウエイター,全く見かけによらず律儀で真面目である。

わかったわかった。

じゃ,それをひとつもらおうか。彼はほっとしたようにパンケーキのメニューを差し出した。B4サイズの紙にびっちりと,細かい字で100近いメニューが並んでいる。具の種類や組み合わせでバリエーションが増えるようだ。お好み焼きやもんじゃによく似ている。無難なところでベジタリアンメニューの印がついているのを指さした。

それから,豚肉料理を一品。

これまた英単語が出なくてウエイターが騒々しく悩む。隣席の夫婦に知らないか尋ねたり,知っている英単語を組み合わせて説明しようとしたり。隣の奥さんが「ビーンズ」という単語を思い出した。「そうだ,そうだ」と,盛り上がっている。

いいよ,それ,ください。

とても,「他にはどんなものがあるか?」

…とは,聞けない雰囲気だし,たぶんまた説明は長く難しそうである。


あとは気長に待つばかりだ。

空が美しく暮れてゆく。旅に出て以来,ずっと冒険の連続で,常に何かを考えていた。いや,出かける前もぎりぎりまで仕事に追いまくられてたっけ。久しぶりにただ待つだけののんびりとする時間ができた気がする。

宿のWi-Fiでスマートフォンから自分のサイトのブログにアクセスし,テーブルの様子を写して更新した。

*・。*゜・。・o゜・。*゜・。・o*゜・。*゜・。・o*゜・。*゜・。・o*゜・。・o

シュウとドレミはただいま小さな白いオペルでヨーロッパを放浪中です。冒険の連続で、今日が何日目かもう覚えてません。今夜の宿は国境近くのよくわからない名前の町にあるモーテル。宿のフリーWi-Fiからアクセスしてます。おなかペコペコで、夕食を待っているのですがなかなか出てきません。

*・。*゜・。・o゜・。*゜・。・o*゜・。*゜・。・o*゜・。*゜・。・o*゜・。・o

ちょうど日本の夜だったので,何人かがレスを寄せてくれたが,たぶんこんな冒険旅行ではなく,もっと優雅でゆったりとした旅を想像されていたことだろう。


パンケーキが運ばれてきた。

うまい!

ウエイター氏の熱弁通り,これは「パネクッケン」というオランダ料理である。たっぷりのゴーダチーズが裏側で焦げて香ばしい。


球形のコロッケ。ホワイトソースにコンビーフを混ぜ,高温でさっと揚げてある。マヨネーズたっぷり,マヨラーにはたまらない一品である。


そして,おお!!これは…。

隣席の奥さんが「ビーンズ」と言ったときに思い出すべきだった。前夜,ブレダーで食べたのと同じ串焼きトンではないか。全く読めないメニューから,2夜連続,同じ料理を注文することも珍しい。少なくともこの焼きトン,この地方のスペシャルであることは間違いない。


旅に出て何日目だろうか。

「さあ」

まだ暮れ残る空が鮮やかに夕焼けしはじめた。ここはどの辺なのだろうか。

「エイントホーヘンの郊外にあるインターの近く。」


なるほど。で,このビールは何杯目だろうか。

「3杯目よ,もうこれでおしまいね。」

うむ。

痺れるほどの旅情に酔った。

EOS 5D MarkⅡ+ EF17-40mm f/4L USM

 

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