Aug.2015
23.チョコの聖地
朝,夕べの喧騒はあとかたもない。陽気な宴はうたかたの夢。泊り客のボクらだけが取り残された。そんな寂寥感の漂う中でオーナーの女性が黙々と花に水やりをしている。
ここがフロント。チェックアウトに行ったドレミが撮影した。どうみてもバーのカウンターである。料理の味一本で勝負している。
ふと,天草で泊まった料理民宿の刺身がめっぽううまかったのを思い出した。東京から脱サラしたオーナー夫妻が,つぶれたラブホを改装して営業している宿だった。
ボクらのような旅をしていると,こんな珍しい宿にもよく出会う。
宿を出て一度ヌエネンに戻ることにした。
ゴッホゆかりの場所のうち,描いた水車小屋がそのまま残っているという大物が郊外にある。全部は回り切れないので,その水車小屋を探して,オランダに別れを告げようというわけである。
踏切の手前で馬車がUターンしている。ぱっかん,ぱっかんと迫力がありすぎる。
何事かと思えば,ボクたちに道を譲っているのだった。御者がアイコンタクトで謝意を伝えてきた。
こちらこそ,日曜の朝からお邪魔して申し訳ない。
ゴッホは生涯で油彩約860点,水彩150点を残したが,そのうちの実に2割強はヌエネンで描かれている。
高速に乗って一気に南下した。例によって,ただ看板一枚でベルギー入った。もっとも,前日に30回くらい蘭白(オランダ・ベルギー)の国境を行ったり来たり越えているので新鮮味はない。
今夜,どこに泊まるか…。ボクは二匹目のドジョウを狙っていた。ドジョウとはデルフトの街並である。アムステルダムやハーグのような大都市さえ避ければ,すぐ隣にはデルフトやブレダーのような実に風情ある雰囲気の残る町が点在している。だが,ドレミの唯一の行き先希望はブリュッセルである。そこをチョコの聖地と信じる彼女を説得しなければならない。大都市嫌いのボクは朝から妻の説得にかかった。
どうだろう,ここはブリュッセルではなく,その近くの小さな古都を狙うというのは…。
「…」
チョコレートの専門店に行きたいのは分かっているが,小さな町にもノイなんたらとかガレーだメリーだとかの支店もあろう。
「…」
な。オレが街撮りに出れば,ドレミは思う存分,時間を気にせずにチョコレート店を回れるぞ。
「…」
わかった。ブリュッセルに泊まろう!それも思いきり中心街の近くだ。行きたいチョコレート屋の分布する円の中心にホテルを探せ。
「うん♪」
…と,いう経緯(いきさつ)である。
ドレミは基本,口答えというのをしたことがない。だから夫婦喧嘩も一度もない。そもそも24時間一緒にいると,感じることも考えることもシンクロしてくるので,相談というのは実質それを確認するだけものである。たまに意見の相違があってもたいていはボクの意見通りやってみようという結論ありきの話になっている。
だが,彼女が何を言われても,どう説得されても,ただただ黙っているとき…それは「どうしても譲れない」というときである。
当然ながらこの場合,譲れない彼女の意見が二人の総意となる。
もちろん,一年に一度もないほどの頻度である。つまり,ドレミにとって,ブリュッセル行きは数年に一度の重大事らしい。こうしてボクは苦手な大都市,それも首都の目抜き通りに面して,有名な小便小僧には歩いて数分…つまりドがつくほど大観光地の真っ只中に予約したホテル「バリー」を目指す。首都の日曜の歩行者天国に突入する決意で高速を飛ばしている。
妻をこよなく愛するがゆえである。
ブリュッセル
「お昼はガソリンスタンドのサンドイッチでいい!」
ボクのセリフではない。ドレミが言うのである。妻の心はすでにブリュッセルのチョコレート屋に飛んでいる。サンドイッチはボク用で,自分は早くもワッフルを昼食にしている。グリーンティがあったので,買ってみたが予想通りお砂糖入りで甘い。
ヨーロッパの水は高いと言われているが,オランダでもベルギーでも,スーパーで2Lくらいの徳用ボトルを買えば,日本よりむしろ安いことがわかった。これを飲みやすいよう,小さなペットボトルに小分けして,開封した水はその日のうちに飲むようにした。
いざ,移動モードの戦闘態勢に入れば,ボクたちの行動は淡々とストイックで早い。昼過ぎにはブリュッセルのインターを下りた。
街並はオランダとは対照的に落ち着いた色合いである。天気のせいか(この日は旅行中唯一の曇天だった)少しサビの効いた雰囲気に見えなくもない。中心街の石畳などは,軽く20センチほどの高低差に波打っている。通行人も車もかなりの注意を要求される。そして自治体がこれを保守保存するのも並大抵のことではない。ヨーロッパでは官民一体となって街並みを大事にしていることがわかる。
例によって,夏の工事シーズンに歩行者天国,さらにはイベントの重なったブリュッセルの中心街に車でアクセスする苦労は筆舌に尽くし難い。ボクはまるでゲームのようにドライビングテクニックと判断力を試され,ドレミは何度も道を聞くために石畳の舗道を駆けた。
ホテルバリーはそんな古式蒼然たる石の建物の一つだった。くたびれたフロントには,これもまたほどよくくたびれた,いかにもなオヤジが座っていて,やたらと流暢な英語を話すので,ドレミが交渉に入った。
「あたしたち,ベッド4つもいらないんですけど…」
ボクたちの部屋はエレベーターの止まる階から,上か下に半分階段を下りる大きな部屋だった。腰が痛いので,狭くてもいいから階段を使わなくてすむ部屋に空きはないだろうか。
オヤジはまるで映画の名脇役のようにニンマリと笑った。
「マダーム。広くて悪いことはありませんよ。ベッドも両方,お使いになってください。気分を変えて2度お楽しみいただけます。」
ボクはこういうフランス人系のジョークが好きではない。ウィットもユーモアもノンメルシー。ドイツ人の武骨さの方が日本人にはずっとしっくりとくる。
「24時間いつでもあなたがたのお好きな時間に出入りできる…」と,スケベオヤジが自慢する地下駐車場。
要するにセルフサービスである。
「シュウ,何してんの!急いでよ。」
はいはい(;^_^A
がらごろがらごろ…大丈夫,チョコは逃げないよ。
「いいから,早く!!」
あ,はいはい(;^_^A
部屋に荷物を置くなり街歩きに出発!!
いや,待て。いちおう有名観光地なんだし,ゆっくり行こうよ。そんなに急いでどこへゆく…あ,チョコレート屋ね(笑)
言わずもがな。
王宮。なれど,王様もバカンスで不在である。
たぶん,名のある広場。
おそらく,人気のある階段。
きっと有名な泉。
ここは音楽博物館
見学しなくていいのかー?(妻はバイオリニスト(;^_^A)
…って,あれ?いないぞ。どこに行った?
おーい。
並んでいた。
会心の笑み。
んー。
町に下りてなおも走るドレミ。
…と,前方に群衆が濃い。
あ(;^_^A
かの有名な小便小僧ね。
小便小僧周辺とそれに隣接するチョコレート屋さんはチャイニーズ観光客に占拠されていた。
いやーん♪ここはパス~♪
走る走るドレミ。全身に喜びがあふれている。
ついにたどり着いた。ここが彼女の目的地…
「ギャルリー・サンチュベール」
世界最古のアーケード街である。
そして知る人ぞ知る,世界最高峰を誇るベルギーの老舗チョコレート店が軒を並べる…まさにチョコレートの聖地。
日本では一粒が300円だ500円だという,しかも特別なフェアなどでしか手に入らないチョコがずらり適正価格,その上試食自由と来ては,まさにドレミ天国!!
試食する。
真剣に迷う。
買う。
撮る。
食べる,迷う,買う,撮る。
食べる,迷う,買う,撮る。
彼女にとって,こんなに大切な場所だったとは,ブリュッセル泊まりにしておいてホントに良かったと思う。
はい,時間切れ~(;^_^A
「えー!?もう,1時間半たったの?じゃ,次は…」
た,食べただろ,ワッフルは,もうさっきも高速のパーキングでも食べただろ。
「これは違うの。メゾン・ダンドアなの。」
あ,そうなの(;^_^A
お姉さん,悪いけど,オレ,コーヒーだけね。
そして購入したチョコのチェック。
いいけど,自分のだけじゃなくて,お土産用も買ってきたか?
「もちろん♪じゃーん♪名店の小○小僧チョコレート♪」
な,何ーっっ!?
ばかもん!!人様に差し上げるお土産に立ちションのチョコレートとはなんたる失礼!!
「…(しゅん)」
すぐ返して来い!!交換してもらえなくても結構!新たに真四角なチョコ買って来い!!ま!し!か!く!
「は,はい」
何事かと他のテーブルの客が心配そうに振り返る。余計なお世話だ。そもそも立ちションしてる像の泉こそ下品極まりない。ボクはこの手のフランス人系ジョークが好きではない。
グラン=プラスは世界で最も美しい広場と言われているそうだ。広場をぐるりと取り巻く建物がすべてアールヌーヴォーアートとして世界遺産なのである。
いいか,ここで40分待っててやるるから,アーケードまで戻って,お土産のチョコを全部買いなおして来い!!
ちょっときつく言い過ぎた。
そもそも小便小僧のお土産が失礼だと思うのはボクだけかもしれない。実際,帰国してお土産を渡した相手からアンケートを取ると「全く問題ない。むしろその方が面白かった」という意見が100%だった。
アールヌーヴォーとかゴチックとか…西洋建築には興味がないので,世界遺産の広場にいても,あまり写真に身が入らない。
この写真,後ろの建物は工事中で,実は全面写真のシートである。
40分ぎりぎり。通りをドレミが駆けきた。
ん?おかしいぞ。チョコはほとんどカメラバッグに預かっているのに,また両手いっぱい袋を提げている。
「はあはあはあはあ。ああ,走った走った。全部,交換してくれたよ。残った時間でさっき行けなかった店を回ったら,またこんなに買っちゃった♪」
…さすが,ドレミ。転んでもただでは起きない。
一度宿に戻り,機材を三脚と広角単焦点の本格夜景バージョンに入れ替えて再び街にゆく。ベッドが二組あってよかった。もう一組のベッドにはチョコレートさまが大事に広げられている。夜になったら,融けやすいものとトランクに入れておくものに仕分けるそうだ。