11/一ノ谷逆登り

Apr, 2022


南紀から昨夜のうちに中国道の最初のパーキングまでがんばって移動して寝た。今日は土曜日,渋滞する前に大阪を突破しておいたのは正解だろう。



急ぎ身支度を整え,阪神高速新神戸トンネルを抜けて神戸の西に出る。アドベンチャーワールドで買った楓浜もいっしょに乗っている。

1184(寿永3)年2月7日の夜明け頃,一ノ谷合戦は生田口に布陣した源範頼率いる源氏主力の大手軍5万騎が最初に口火を切った。今の三宮付近であろう。



阪神高速を下りたボクたちは西に向かう。平家本陣のあった福原を過ぎ,須磨の東端にあるコインランドリーまで来た。義経搦手軍の別動隊が突入した夢野口付近である。



長旅の途中ではいつもドレミから洗濯のリクエストが入る。北は宗谷から南は鹿児島まで,ボクたちの行ったコインランドリーは全国数十ヵ所に及ぶ。神戸にもまた新たなキャップを刻んだ。

洗濯は2時間強だが,最近は「終わっていたので出しました」という札が用意されているので,よしんば回収が遅れても人にそれほど大きな迷惑をかけることはない。 



コインランドリーから須磨浦公園は近い。朝だと言うのに駐車場はもう平置きのスペースがいっぱいだった。係員はとても親切で,脇で自転車を下ろして立体駐車場に入るよう誘導してくれた。



さて,明日のウォーミングアップも兼ねて今回の旅で最初のサイクリングに出発。前日の動物園ウォーキングで,腰は立たないが自転車を漕ぐには支障ない。



「鹿が下りられて馬が下りられる崖だ。自転車で登れない道理はない!!」


「義経してないで早く行こうよ。」


この須磨浦公園こそがかつての一ノ谷の主戦場である。逆落としをかけた義経軍の精鋭70騎が平家の陣を奇襲して源平合戦の帰趨を決めた。



この場所から義経軍が駆け下った坂を逆に登ってみようというのがこのサイクリングの趣旨である。



細長い公園を挟んでJR神戸線,国道2号線,山陽電鉄本線が狭い海浜に集中している。そのわけは後ろを振り返ると分かる。


波打ち際から急坂まで50mとない。


ひょえー!!!

とても自転車なんかで登れる傾斜ではない。



ボクは腹ばいに自転車に体を預けるようにして登り,どうやらゴール地点と予想した住宅街のいちばん高台までたどり着いた。

甘かった。この程度の高台なら平家が奇襲の備えを怠るはずがない。



崖はそこから始まっていた。



自転車を置いて崖の上を目指す。



ちょうど地元のハイカーが下ってきたので尋ねてみた。

「逆落としの場所までどれくらでしょう。」

…ご存じなかった。どうやら地元でも知る人は少ないマイナーな史跡のようだ。

「平らになっているところまでなら,そうだなぁ,30分くらいかな。」


「ええ!?」

ボクは激しく動揺した。…と言うのも,もはやボクの足腰は歩くことが困難な状況にある。そもそも脊柱管狭窄症の術後の回復がぐずぐずと芳しくなく,直立していられるのは10分足らずである。しゃがんで腰を0度に畳んで暫く耐えればまた10分ほどは歩けるがとても健常者とは言えない。そこへもってきて,旅に出てここ二日間,近江百済寺登山,和歌山城本丸二度登城,そして動物園。もう何度路上にしゃがんだか数えきれない。数年ぶりの酷使の結果,下半身の感覚がなくなるほどの筋肉痛である。

ハイカーの言う「平らなところ」が尾根筋を指すとすれば,逆落としは少なくともそこまでの途中にある。3しゃがみか4しゃがみくらいでたどりつけるだろうか。


考えていても仕方ない。ここまで登ってきて引き返すわけにもいかない。

倒れかけた標識に「旗振山」とあった。道は間違いない。



つづら折りをあえぎながら登ってきたボクを先行していたドレミが待っていて

「どうする?まだ登る?」

と,わざわざ聞くのはどういうことだろう。



いやな予感が当たった。

どうやらここが逆落としである。


この坂だけで3しゃがみ必要だった。インターネット上には坂の上に台や看板が所狭しと並んでいる写真を見ることができるが,現在は崖にコーンがポツリと置いてあるのみだ。史跡としての信ぴょう性が揺らいでいるのか,はたまた危険だからか,看板や標識は全て撤去されている。運搬不可能だったと思われる歌碑だけが残っていてそこが目的地であると知れた。


源平のいくさの跡のこの峯を
桜もて飾らん 妻偲びつつ
津村隆

どうやら同じ季節に登山したと見える。帰宅後に調べたが少なくともインターネット上にこの歌碑,歌についての情報はなかった。歌人名鑑にも作者の名がない。


あるいは歌人ではなく,地元の名士か財界人か私費を投じたものか。だがこのやや稚拙と見える歌にボクの心は激しく揺さぶられた。作者の史跡探訪をずっとともにしたであろう夫人の姿が目に浮かんだからだ。もしもドレミに先立たれたらフィジカル的にもメンタル的にもボクにはこの坂を登る力はない。


崖の上から下を覗いてみた。ここを下ろうとする発想がどうかしている。なるほど人を力でねじ伏せるにはこの崖に飛び込むほどの勇気が必要なのだろう。


逆落とし付近の開けたところから一ノ谷を見下ろす。右手の森の下あたりが一ノ谷の主戦場,左奥のビル街が三宮方面,すなわち生田口である。


春休みの晴天だが上り下りの1時間余り,ついぞ誰とも出会わなかった。タローがいっしょだったらさぞかし喜んだろう。彼を思わない日はない。

山を下ったボクたちは東へ自転車を走らせた。


一ノ谷の戦いで平家側は多くの武将を失ったが,最も痛手だったのは平重衡だろう。清盛の子の中でも突出した器量を持っていた彼がもし一ノ谷からの脱出に成功していたら屋島や壇ノ浦の義経軍はもっと苦戦を強いられていたことだろう。

重衡は敗走する平家軍の殿(しんがり)として奮戦し,範頼軍を食い止めていたが,馬を射られて落馬し捕らえられた。重衡囚われの松という史跡が伝わっている。須磨の砂浜に立つ老松を想像し,一ノ谷に行ったら訪ねてみたいとかねがね思っていた。


囚われの松は意外な場所にあった。



山陽電鉄須磨寺駅前の薬屋さん…その角の植え込みに碑が建っていた。目の前を何度も通ってもなかなか見つからなかったわけである。



須磨寺の近くに,同じ松でもこちらはさらに時代を遡り「管公お手植えの松」という史跡がある。



菅原道真が太宰府左遷の際,播磨灘で嵐に遭い,一時須磨に上陸して滞在した。須磨にはその伝説の地が多い。一つ二つ自転車で訪ねるつもりだったが,時間が押してきた。



時間と言うのは洗濯終了の時間である。

洗濯ものの回収を終えたドレミは断固「オシャレなカフェ」でランチを主張した。一ノ谷逆落とし探訪を付き合った彼女にはその権利がある。



リュックに洗濯物を詰め込んで,オシャレなカフェを探しに出ようとした矢先,ボクはコインランドリーの隣が数日前にオープンしたばかりのアメリカンダイナーであることを発見した。どうやらドレミのお眼鏡にもかなったようである。


p


この店が大当たり。ボクのニューヨーク風ホットドッグランチ・巨大オレンジジュース付は850円である。



お腹がくちくなって,のんびりと国道2号を須磨浦公園に戻ってくると駐車場がたいへんなことになっていた。路上で駐車場が空くのを待つ車の列が上下合わせてざっと50台,60台ではきかない。



須磨浦公園は地元で愛される花見の名所のようだ。旅人がいつまでも居座っては申し訳ないと思ったが,もう一箇所訪ねたい場所があった。探してみると駐車場の裏だった。ボクらが車を停めた場所から見下ろすことができる。



講談「青葉の笛」に名高い敦盛塚

やはり海に逃れようとした清盛の甥平敦盛が義経隊の熊谷直実に呼び止められ,引き返して討たれた場所である。敦盛の鎧から弘法大師が唐から持ち帰ったと伝わる名笛青葉が出てきた。


「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり…」

織田信長が桶狭間出陣の際に舞ったと言われる幸若舞「敦盛」の一節は,無常を悟り,後に出家する熊谷直実の心情を謳っている。出家した直実は生き残ったが,一ノ谷合戦で勝利した源氏側も範頼,義経始め大半の武将たちはその後,頼朝や政子・義時姉弟によって粛清されている。

一の谷の軍(いくさ)破れ,討たれし平家の公達あわれ
暁寒き須磨の嵐に聞こえしはこれか 青葉の笛

(文部省唱歌「青葉の笛」より)

目次へ12/上総広常