01/三浦義村

Oct, 2021


134号線を外れ南に向かうと、とたんに三崎街道が激しく渋滞していた。城ヶ島駐車場からスタートの計画を早くも変更し,第二候補だった近くの公園の駐車場に向かう。



展望台から宮川港が見下ろせる。愛犬タローの在りし頃,このあたりの岩場で遊んだ日を想う。その日は写真仲間とのオフ会で,大勢の人に囲まれたタローは足が地につかないほどはしゃいでいた。

ドレミがぽろぽろと涙を流す。出発はまだ後でもいい。暫くは潮風に乗ってくる心地よい思い出の中に身を置く。 

 


落ち合う約束の親友イリさんに出発地変更の連絡をしたがLINEもメールも返信がない。よくあることだ。今頃はすでに行程のどこかに着いて待っているのだろう。驚かすつもりなのだろうが慣れているのでもう驚かない。


気候が不順だったために関東地方では多くの金木犀が9月前半に狂い咲きした。今週は正常な季節感で金木犀の第2波が来ている。三浦半島は甘い香りに包まれて,空ではトンビがしきりと甲高く啼いている。



秋の景色とはうらはらに気温はまた真夏日になる勢いで上昇している。成瀬城を探訪した前回同様,還暦チャリダーには熱中症のリスクが高まる。



今回の探訪先は来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の登場人物ゆかりの地を訪ねる予習シリーズ第一弾!鎌倉時代の武将三浦義村公の墓である。


聖地巡礼よろしく,歴史小説やドラマにゆかりの地を訪ねることを趣味とする人はきっと1万人にひとりくらいの割合で存在する。だが,それほど興味がないのにそれにつきあう妻(夫)はほとんどいないだろう。まして訪問先の所以を知らぬままその旅に合流する親友もまた稀有であろう。ボクの史跡探訪はそういう環境下にある。


目的地の金田に着くとイリさんとスクーターが漁港の入り口の風景に溶け込んでいた。小一時間も待ったはずだが、さっき着いたような顔をしてにっと笑う。



海岸段丘の上に登る崖の急な階段に腰掛けてスマホを開き、墓の場所を確かめていた。その頭上に「三浦義村の墓」と木の看板があるのをドレミが見つけた。



階段を上がると民家の庭先に出て,さらに奥に階段が続いていた。20mほどの断崖の上に出る。



三浦義村は平清盛が厳島神社を造営した1168年に生まれた。初陣は1184年,17才のとき。祖父,父とともに源範頼に従って木曽義仲及び平家の追討軍に従軍し,宇治・瀬田や一ノ谷の戦いなどの大合戦にも参戦して武功を挙げた。


源頼朝の死後は梶原景時の変,比企能員の変,畠山重忠の乱,和田合戦など鎌倉のすべての変事に関わり,権謀術数の限りを尽くして三浦氏の全盛時代を築いた。そしてそれは同時に北条義時による執権政治樹立を支えることとなった。

義村は「鎌倉殿の13人」ではない。13人に数えられているのは父三浦義澄である。だがおそらくドラマは主人公義時と義村を軸に展開するとボクは予想する。根拠は配役である。


「イリさん,来春になるとここには歴女が押し寄せて,漁港にはきっと臨時駐車場ができますよ。」
「ほう,そうですか。」
「義村役の俳優さんが,ほらあの人なんです。」

ほら,あのドラマであの役をやったあの人で…三人とも役者の名前が出てこない。そういうお年頃となった。



山本耕史さん…三谷幸喜さんが手がけた前回の大河「真田丸」では石田三成役で主役を食う人気を博した。三谷さんの信頼も厚いこの人が演じる限り,おそらくはドラマの軸となる。予習シリーズ第一回に選んだ理由もそこである。 


近くに福寿寺という義村が開いたとされる寺がある。三浦氏全盛の頃のことである。おそらくは史実であろう。同じ段丘上にあるが間に車道が切通しされているために,一度海岸まで下りなければ行けない。自転車は坂道を10mほど登ったところで時速0kmになり,降りて押して上がることとなった。路傍に休んでいた老婆が声を掛けてよこした。

「坂が急だけねー」
「お寺に参って来ます!」

荒い息でボクは精一杯そう答えて額の汗を拭った。


寺に登る階段の下に三浦義村についての説明版があった。ドレミが熟読しているところにイリさんのスクーターが何とか坂を登り切って到着した。二人ともこの看板を読んで,初めて今日自分たちが訪ねてきたのがどういう人物かを知る。



福寿寺の細い参道脇には小さな石仏や石塔が並んでいる。レリーフを見れば美術的にはかなり優れた造形とわかるが,単独の石仏は風雨に浸食され,目鼻どころか頭の輪郭すらも定かでない。どう見ても七,八百年は経ていよう。関東地方で開発を免れた場所では,このように無造作に並べられた鎌倉時代に頻繁に会うことがある。



日差しは夏のそれだが蝉時雨はない。はるか下の渚の音が聞こえそうなほどにあたりは静けさに包まれている。



福寿禅寺と看板のかかる本堂に着いた。説明板によれば御本尊の聖観世音菩薩像は行基の作である。また本堂には義村公の鞍や鐙が保存されているとあった。不信心の身が憚られて声を掛けづらいが何とか鞍だけでも見えないかと覗こうとしたところが,本堂の中に賽銭箱のあるのが見えた。おそるおそる戸を引くとすっと開いた。



堂内は掃き清められ,丁寧に網戸を設えた鎧戸が三方に開け放たれて,参拝者を爽やかな風が出迎えた。小さな漁村の寺である。もしかしたら今日,この堂を訪れる旅人はボクたち三人だけかもしれない。住職の人柄がにじんでいた。



賽銭箱の上に消毒スプレーが設置されている。その陰に木の器があり,中に塩分補給用のスポーツドリンクのタブレットが入っていた。 



参道の階段を上ってくる参拝者の熱中症予防に配慮したと思われる。それを一粒ずつ頂いて,ドレミがボクたちとしては破格のお賽銭を投じた。この寺を訪れたことで今日がとても意味のある一日に思えた。



義村公の鞍と鐙は見やすい場所に展示されていた。ご本尊はずっと奥の厨子の中と思われる。興味本位のボクたちが拝顔すべきではない。行基作の仏像というのは聞いたことがないので仏師は別だろう。だが三浦氏は京都の公家とのパイプも太かったので,義村が寺の建立に際し,奈良・京都あたりから行基ゆかりの本尊を遷座したことは想像に難くない。



山門だと思って近づいてみると鐘楼だった。楼は真新しく頑強な作りだった。



鐘楼から港が見える。イリさんとひとしきり写真を撮っていると,下の方からラッパのような音が二,三度鳴るのが聞こえた。 先に門まで下りていたドレミによれば,門前に軽トラックが来て豆腐を売り,早や去ったとのこと。ラッパはその合図だったようだ。



ふと門の向かいの民家から初老のご夫人があたふたと容器をかかえて駆け出してきた。道路に出て右左を窺っている。ドレミが不憫に思って近づき,豆腐屋はずいぶんと前に去ってしまったことを伝えた。夫人はとてもがっかりし,ドレミに丁寧にお礼を言ってまた農家の中庭に戻って行った。寺は鎌倉時代だったが、路地には懐かしい昭和の時間が流れていた。



海沿いを三浦海岸まで北上した。海の向こうに房総半島がくっきりと浮かぶ。砂も海も空も美しいが浜には下りない。こんなところでは必ず,渚まで一目散に駆けて行って「ママ!海に入ってもいい?」と振り返ったボクたちの息子はもういない。


交差点の老舗食堂の暖簾をくぐった。お昼どきになったのでテーブルはほとんど埋まっていたが,席は離れていて満席でも10数人しかいない。みなマスクをして食事が運ばれてくるのを待っている。 


ドレミとイリさんは刺身定食を,ボクは金目煮魚定食1,500円を注文した。先日,湘南っ子のイリさんがお付き合いで地元の料理屋に行き,金目鯛の煮付けを食べようということになった。メニューを見ると「時価」とあるのでお店の人に聞くと14,000円と言われたそうだ。魚の値段とはいったいどうなっているのだろう。



ふとメニューボードを見ると「プラス50円でサザエご飯」とある。プラス200円でも躊躇なく頼むだろう。



地物のタコとワカメのサラダ。マグロはインド洋や南太平洋で上がったものだ。東京で食べても味は変わらない。わざわざ三浦半島に来て観光客値段のマグロ丼を食べて帰る人たちの気が知れない。



1,500円の金目鯛定食が運ばれてきた。



プラス50円のサザエご飯。ドレミが飛び上がって厨房に走り,自分の分を小盛にするように頼んだ。おばさんが豪快に笑った。そもそもこのおばさんの明るい声に惹かれてここまで自転車を走らせてきた。福寿寺の門前で営業確認の電話をしたとき,ドレミのスマホから近くに立って地図を見ていたボクの耳にまで響き渡る元気な声だったのだ。



刺身定食の魚はお任せ。旬なのだろうか,この日はカレイが中心だった。マグロの赤身も二切れついている。 



イリさんとは食堂の前で別れた。一年半前にボクたちと違って本当の息子さんを喪くした彼は、目下ボクたちが呼び出さない限りお出かけすることはないと思われる。


帰り道は三浦半島の最高峰岩堂山(標高80m)から続く稜線の峠越えをすることにした。三浦から海沿いのコースは金田,松輪,毘沙門,そして宮川、目的地は4つ目の浦となる。越えていく段丘の標高差を合計すると岩堂山に匹敵するだろう。それならば行きと気分を変えて最短距離を走ろうというわけだ。これらの判断はいつもボクがひとりでする。ドレミは何も意見を言わずついてくるだけだ。


空は澄み渡り富士山が遠望できる。サイクリングする人も多く,地元の車も自転車に慣れている。対向してくるレーススーツに流線型のヘルメットを被ったロードレーサーのお兄さんに「やあ」と挨拶の手を挙げられたりするといっぱしのサイクリスト気分になってくる。



真夏日の午後の日差しは強くあまり激しくペダルを漕ぐことはできない。134号との分かれ道,おそらくコースの最高所とおぼしき地点にたどり着くのに目安の2倍近い時間を要した。



城ヶ島方面への渋滞は激しさを増していた。さすがにこれは観光客渋滞だけとは思えない。工事か事故の影響だろう。ドレミが後ろからストップサインを送ってきた。



動かない車道を横目にどんぐり拾いに興じている。



岩堂山頂付近…もっとも今は大根畑と新興住宅地になっている。 



汗まみれのゴールイン。どうやら熱中症は免れたようだが明日は筋肉痛だろう。 



自動販売機まで往復してきたドレミが「涼しい日陰のお席にどうぞ」と隣の車止めを指さす。ボクたちは500cc入りペットボトルの冷たいお茶とコーヒーを一気に飲み干した。



東京への帰り道はナビに抗う気力もなく,ベイブリッジを渡って首都高に入るゼイタクコースを取った。



岩室山のどんぐりは職場の受付を飾っている。


目次へ02/対面石へ