03/チング

Aug, 2004

2001年の初夏,ドレミはニューヨークにある語学学校の席にぽつんと座って授業を待っていた。ニューヨークには親戚が多く住んでいるので,留学して3ヶ月の彼女がかかえていたのは,現実的な孤独というわけではなかったと思う。

生真面目な性格から,限られた期間と資金で何をすべきか考えすぎ,焦燥感から精神的に追い詰められていたらしい。たぶんその日も,教室のすみで予習でもしていたのだろう。ひとりぼっちの日本人に最初に声をかけたのはフーンだった。フーンはお調子者で韓国人学生グループのリーダー的存在だ。好奇心が強く,格好つけてるのに今ひとつ決まらないキャラクターで,みんなに慕われている。人一倍気持ちも優しく,おそらくは寂しそうなドレミを放っておけなかったのだろう。まさかそのときはドレミが10才も年上で,社会人10年生とは思ってもいなかったに違いない。

やがて,コリアンストリートのブルーというレストランでアルバイトしながら学ぶハナとも親しくなり,彼女のアパートでの飲み会に誘われた。ドレミは仕事で歴史も教えていたから,せめて彼らに日本と韓国の歴史についての自分の立場や考えを説明しようとしたらしい。

その困難さと圧倒的な優しい笑顔のギャップに感極まった彼女は,いきなりその場で泣き出した。彼らのあわてぶりが想像できておかしい。泣きながらドレミの話す断片的な内容から,なんとか事情をのみこんだジョーが

「それは単なる歴史です。」

と,あまり意味のない慰めの口を切る。ジョーは顔立ちのはっきりした二枚目だが,体が小さいのと英語の発音が悪いのとで損をしてなんとなく影がうすい。

一方,ハナは深川あたりの江戸ッ子娘が,時代と国を間違えて生まれたかと思うほどの気っ風のよさで後輩たちの面倒をよく見ていたが,

「とにかく飲もう。」

と,自分もあまり強くないくせに後輩たちの杯を満たす。楽天的なフーンは,これまで日本人と話すときにそんなこと考えてもなかったのだろう。ただ,酔いも手伝ってやたらに感動していた。と言う訳で,この涙は,たぶん若い韓国人たちの,日本に対する意識を劇的に変え,同時にドレミを仲間としてハナ党へ迎える決定打となった。

ドレミは語学学校期間が終わっても,ハナ党の仲間とバーベキューやら遊園地やらで遊ぶようになった。苦学生である彼らの遊びはあまりお金がかからないように工夫されていて,ドレミには助かった。もちろん当時のハナ党の中ではドレミの英語力はずば抜けていた。フーンがなんとか達者な方だったがやはり語彙が少ないので話題は単純なものばかりになる。

「あれではドレミの勉強にはならない。」

と親戚の人は最初心配したらしい。ところが,友だちを得た彼女はみるみる元気になり,自分で求人広告に電話を始めた。日本語やバイオリンの教師として,またあるときは英会話の生徒として精力的な活動が始まる。イギリス人,メキシコ人,エクアドル人,もちろんアメリカ人と交友関係はどんどん広がり,あの9.11テロ事件(ドレミの滞在先はそのときツインタワーと目と鼻の先の叔母のマンションであったため,アルバイトに出かけていた彼女は一週間,家に帰れなかった。)もなんのその,完全なニューヨークっ子生活をエンジョイし始めた。彼女はみんなにそれぞれの国の料理をごちそうになり,そのたびに

「shuが来たら,おいしい日本食を作ってごちそうするね。」

と空手形をばんばん切っていた。おかげで冬に会いに行ったボクは,まるで板前さん状態。とくに暮れには,手に入りやすい中国野菜を駆使してお煮しめを作る。ニュージャージーの日本食スーパーで祝い箸やプラスチックのお重や蒲鉾を揃え,はんぺんを使って伊達巻を焼く。そして母に電話で聞きながらなますを作り,黒豆を煮て,おせち料理を調えたのだった。

年が明けると,ボクとドレミは,お互いに帯を締めあって着物を着付け,おせち料理をぶらさげて,正月から連続5日間,毎日地下鉄に乗ったものだ。もちろんハナのアパートにも着物で行って,たすきがけしてお雑煮も作った。ハナもジョーもおせちのメニューを良く覚えていてくれた。ドレミの元気のきっかけとなった彼らは,彼女の留学の恩人だとボクは思っている。

ようやく全員がそろい,駅の階段を上って地上に出ると,そこはソウルの南を東西に流れる漢江を見下ろす堤防の上だった。河川敷には芝生が植わり,ひまわり畑やサイクリングロードが続き,はるか対岸にはソウルのビル街が照り付ける陽射しにゆらゆらと揺れていた。どうやらそこは中州の汝矣島という島らしい。


河川敷に下る広い階段を降りながら,フーンがドレミがジョーがハナが誰からともなく駆け出す。四人にとって,ここはきっと懐かしいハドソンリバーなのだ。


同窓会が始まった。たぶんフーンの手配だろう。ほどなく中華料理のデリバリーサービスが岡持ちいっぱいのごちそうを運んできたが,ほとんど真上から落ちる夏の陽射しは木陰すら作らない。仕方なく土ぼこりのひどいテント屋根のグラウンドのようなところにシートを敷いて昼食になった。


「無計画なフーンらしい」

と,風にあおられるシートを押さえながらもドレミは楽しくてしかたないらしい。


ここで二時間ほど過ごし,移動した対岸の公園でも,あずまや(この国のあずまやは靴を脱いで寝転べる板張りが多い)で二時間,ひたすらおしゃべりが続いた。ドレミの来韓に合わせて集まった彼等同士も久しぶりらしく,話は尽きない。

ボクはその夜,アジアカップの決勝を迎えるサッカー日本代表の試合が気になっていたが,きっぱりあきらめることにした。この日はフーンのワンルームマンションに皆で泊まる予定なのだが,この調子だと,たどり着くのは深夜だろう。それでも

「せっかく撮影機材フル装備で来てるので,残照くらいの時間にはソウルタワーに着きたいんだけど…」

というボクの申し出に,思い出したように一同は慌ただしくバス停に向かった。やはり時間の計画は彼等にはなかったようだ。

さて,ソウルのバスである。ガイドブックには「市内を縦横に走っていて使いこなせば便利である」とあるがウソである。いや縦横に走っているのは本当だが,便利に利用できるのは頑強な体を持った人に限られる。

ちなみに凸や凹に進入するときは強めにかけたブレーキを,凸や凹の寸前でぱっと離すのが上級ドライバーのテクニックだ。こうすることで前輪のサスペンションが延びきった状態で凹凸を迎え,衝撃を吸収できる。もちろん,ソウルのバスのようにフル加速やフルブレーキ状態で進入するのは論外だ。ただでさえ固いサスペンションは,前後輪のどちらかが縮みただの鉄棒状態になるのでバスはマリのように弾む。両手でつかまっていても立っているのは難しい。大通りに出るとバス同士はもちろん,一般車とも抜き合いをする。信じられないことに,前をとろとろ走る乗用車にパッシングをかまして前に出るではないか。

東京では暴走族でもいまどきこんな走りはしない。バス停では降車用のドアを開けたと同時に「閉」ボタンを押し続ける。ステップに人がいる間はドアが閉まらないので,激しく警告音を発しながら客が降りた瞬間にドアが閉まって急発進してゆく。また,さっきのとろとろ車を抜き去る。

ボクは椅子に座ってさえ必死にバーにつかまりながら

「このバスのドライバーは狂ってるのか,それとも今日,奥さんに逃げられたのか?」

と,叫ぶようにジョーに聞いた。ジョーの答えは

「It's nomal(ふつうだけど)」

だった。ソウル駅近くの停留所で警告音にせきたてられながら降りたときには,ボクもドレミも車酔いでふらふらだった。

ソウル駅前から乗りかえた南山行きのバスをタワー前でおりた。見上げると確かにはるか山の頂にタワーが明るく輝いている。

「ちょっと30分くらい登山になりますよ。」

「え゛ー!」

まるでハイキングへ出発するノリで,車の料金所らしきブースを徒歩で通過してゆく。道にはわずかに白線で歩道スペースが示してあるが,徒歩登山は想定外の作りだ。折から日曜の夜,ロマンチックな夜景を求めて,マイカーやタクシーがひっきりなしに通る。

「Watch Car (車に気をつけて)!」

なんてドレミに叫びながら,ボクの方がすっかり足にきていてひかれそうになる。夜景撮影を考えて,レンズ3本,外付けストロボと予備の電池までフル装備のバッグが肩に食い込み,大ぶりな自由雲台をつけたマンフロットの三脚を担いでよろよろとゆく。30度をゆうに越える超熱帯夜,さすがにほかには徒歩で登る粋狂な人もいない。ようやくたどり着いた頂上は,若いカップルでごったがえす,日本人にも有名な観光地だ。タワーに登るエレベーター内の案内放送は日本語のみで,英語も韓国語もない。が,麓から登山してきてこのエレベーターに乗った日本人は史上数えるほどしかいないに違いない。

展望台から降りてくると,ロビーの大型テレビでアジアカップの決勝を放映しているではないか。

「わーい♪」

と駆けよってみるとスコアは1-0 …しかし,数字以外の画面の文字は全て読めない。1-0の1は日本なのか中国なのか,前半なのか後半なのか。大急ぎでハナを連れてきて,前半に日本が先制したことがわかった。

ハナが画面に向かって

「ニッポン!」ちゃちゃちゃ!

と流暢に応援している。ちなみに韓国の応援は

「テー(大)ハン(韓)ミン(民)グック(国)!」

でボクは昔から知っている。

ボクが学生の頃のW杯テレビ観戦といえば,とりあえず予選の間,出ると負けの韓国を応援しながらヨーロッパや南米のひいきの選手を物色して,決勝トーナメント観戦の予習をしたものだったからだ。日本はもちろん出場すらできなかった。

再び来た道をテクテクと下山して,ハナの親友とは麓のバス停で別れた。タワーの前には空車のタクシーを何台か見かけたが,一生懸命案内する若者たちに「タクシー乗ろうよ」とは,何となく言い出し切れなかった。ボクらにはまだ大仕事が残っている。サボイホテルに預けてある巨大荷物をフーンのアパートに運ぶのだ。バス停で二手に分かれ,ハナとジョーは三脚とカメラバッグを持って先にアパートに向かった。登山中も持ってくれようとしたのだが,「あまりに大事そうだった」ので遠慮していたと言う。えーん,言ってくれれば即,頼んだのにぃ。

結局ホテルからは,さすがにタクシーを使ったので,フーンとボクらは直行組より先に着いた。とりあえず近所の食堂で夕飯を食べていると,店の主人が

「おめでとう♪」

と,英語でいいながら,和風っぽいみそ汁をドレミとボクにサービスしてくれる。きょとんとしていると,ジョーが教えてくれた。

「アジアカップの決勝で日本が中国に勝って優勝したってよ。」

おお♪調子良かった韓国が決勝初戦で敗退してるのでちょっと気まずかったりもする。

 

フーンのアパートはこぎれいなワンルームマンションで,1Fにはファミリーマートが入っている。そこでインスタントチゲや缶ビールを買い,せまい部屋で手鍋を囲む。ニューヨークのハナのアパートと同じ雰囲気にドレミはうきうきと舞い上がってしまう。階下に東京留学の経験を持つフーンの友だちが住んでいて,男組は彼の部屋でシャワーを借りた。その彼を加えて,日本語と韓国語と英語が飛び交うにぎやかな宴会になった。お昼も夕飯もごちそうになってしまっていたボクたちは,せっせと階下のファミマへ,おつまみやビールを買い出しに行った。日本の6割程度の値段なので気兼ねなく買い物できる。何度目かのときにハーゲンダッツの丸い大箱を買っていくと,フーンが

「おー!!ハーゲンダッツ初めてです!おー!!」

と,箱をかかえて日本語で叫びみんな大笑い。ビデオに向かって繰り返してまたみんなに受けている。いくら韓国ではまだ割高とは言え,コンビニに売っているアイスを食べたことがないはずはないのだが,このヘンがフーンの人気の秘密だ。まだ学生気分の残る彼らの体力に着いていけず,ボクはまたまた気絶するように眠り込んだ。本当はフーンの部屋は女部屋,日本語の彼の部屋が男部屋だったらしい。

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