04/ポンテギ

Aug, 2004

朝食は透明なインスタントスープと韓国海苔で,ふだん自炊してないフーンは炊飯器まで借りてきて奮闘している。ハナも甲斐がいしく台所に立つ。

江戸っ娘みたいに威勢のいいハナがフーンといるときだけに見せる女らしいしぐさにボクらは気付いている。一度そのことをハナに聞いたことがある。

「問題外!」と笑い飛ばしたが,あるいはハナの片想いだろうかとも思う。支度を終えてテーブル戻って,またフーンと漫才のようにやりあっている様子もボクにはちょっぴり切なく見えたりするのだ。

「ハナとフーンが結婚したら最高なのに」

とドレミもよく言うが,こればかりはなりゆきを見守るしかない。ボクらが帰国する日,空港からハナの携帯で世話になった人に電話したとき,フーンにだけは帰省中で繋がらなかった。

「入院してるお母さんに彼女を紹介しに行ってるらしいよ。病院だから」

…携帯が繋がらない,とハナがフーンのためにフォローした。その笑顔がこびりついて離れない。

韓食では器を持つのはマナー違反だ。銀の箸とスプーンをそれこそひらり(太宰治ではないが)と使って食べる。ボクなどは気をつけていても,いつの間にか掌に飯椀や小鉢などを載せていてドレミに注意された。

日本と正反対なので困る。どうも韓国ではお茶以外の器に口をつけるのを避ける感じだろうか。ただ最近は日本風のどんぶりやそばも普及してTPOによるらしい。逆に日本人が戸惑うのは共有の鍋やスープに相箸ならぬ相スプーンする点だ。最初は抵抗があったが,彼らを見ているとスプーンにほとんど口をつけずに音もなく汁を飲む。ボクらのスプーンさばきはずいぶんと下手に見えていることだろう。その代わり,海苔を箸で運び,茶碗でくるりとのり巻きを作る曲芸のような箸技は持っていないようだ。

表に出ると暑さはますますきびしくなっている。たった二,三十メートル先の空気が,ゆらゆらと熱気にゆがんでいる。

目がくらくらしたが,当然若いモンたちは全く意に介してない。若くないドレミも元気におしゃべりしながら続く。もっと若くないボクは最後尾をよろよろついて行った。前日の轍を踏まぬよう行き先は予めリクエストした。最初は黄鶴洞という町のディープな市場に行った。テントの市場からアメ横のようなストリートにえんえんと続いていたが,いかんせん午前中なのでまだ開いていないテントが多い。街が活気付くのは夕方から夜中らしい。

一時間ほども歩いてグロッキーになった頃,ハナたちの携帯が慌ただしくなった。応援の子が合流するらしい。ぎらつく太陽の下で待つこと30分,ローライズのジーンズにへそ出しのノースリーブでバネッサが現れた。

さっそくフーンにそのファッションについてにけちょんぱんに言われているが,どこ吹く風で

「ハーイ♪」

と笑顔をふりまく。歩きながら,ぴったり寄り添って顔を寄せながら話すそぶりはとても子どもっぽい。ドレミには,もうアツアツ恋人同士のようにほとんど抱きついているといっていい。韓国の女性の親愛の表現は,多分にスキンシップを伴う。もちろんふつうのことですぐに慣れたが,この距離の近さが,このあと起こったボクらにとっては未曾有の大事件の引き金をひくことになる。

この日はフーンがボクらのビデオ持って撮影してくれた。そのビデオ映像で恐怖の事件に至る様子を再現してみましょう。


はい,アメ横を歩いているボクたちです。楽しそうですね。フーンのビデオは上手です。遠くの高層ビルと近くの町並みを対比させたり(トラックアウト&パン),町ゆく人を追いながら自然に町並みを見せたり(フォローアップ)しています。

東大門近くの中心街に入ってきました。せまい歩道に出店が並んでいます。ボクたちの視線をフォローするように,お店の品が画面を流れていきます。

「冬ソナ」グッズやアクセサリー,トッポギや中華まんなど,食べ物もいろいろ。

と,なにやら褐色の食べ物にズームイン。

いったん画面が切り変わって,恐怖に顔をゆがめるボクの背後でバネッサがそれを買っています。おおぶりな紙コップに山盛り二杯買っています。ハナも来ました。


そう,芳ばしく炒った「さなぎ」である。ドレミが見つけて足をとめたのを,フーンが気づいて撮影する。そこに来たバネッサが

「Try it♪」

と,紙コップを差し出す。じょ,冗談でしょ。ダットのごとく逃げるボクたちを見て美女二人は

「おいしいのにねー♪」

なんて言いながら,その虫を口に放り込んでウインクしている。…これでさなぎ騒動は終わるはずだった。

地下鉄に乗るための階段の途中で三脚をたたんでいたボクは油断していた。ふと顔を上げるとバネッサの笑顔が30cmのところにあった。

「しゅーうぅ。ネー(はーい),あーん♪」

もし,もしそれが気心の知れたハナだったら切り抜けられただろう。

そうだ。子どもの頃にイナゴを食べたことがある。母の親戚の田舎に行ったときだ。東京から来る小さな客のために,イナゴを山盛り煮てくれたお年寄りを悲しませたくなくて,ボクは3匹も口に運んだ。噛むたびに涙が垂直に飛んだっけ。とりとめのない記憶の中に逃避していたボクの唇に,つまようじにささった現実が触れた。歯で挟んで舌に載せる。飲み込める大きさではない。度胸だ。男だ。ああ,男は損だ。海老だと思えば何でもない。同じ節足動物じゃないか。昆虫類は足が6本,甲殻類10本,それだけの違いだ。

…予想通りの食感だった。そういえば昆虫類と甲殻類の間には足が8本のクモ類があった。食道を何かこみあげてくる。これも予想ずみだ。二つにしたさなぎといっしょに飲み込んだ。目尻に涙がにじむ。ようやく我に帰ると,今度は地下道の方から小さな悲鳴が響いた。わが妻も立派に国際親善を果たしたようだ。


景福宮は何やら地下鉄の改札前まで王宮である。コンクリ製だが,やんごとなき石室風にできている。地上に出ると伝統的な衣装を身に付けた衛士が行進している。


観光局か何かの職員かアルバイトだと思われるが,観光客のカメラに気軽に応じながらも毅然としていてニコリともしない。なかなかの役者ぶりである。貸し衣装も無料で,とてもいい雰囲気だが,建造物はどれも最近のレプリカである。建物ごとの案内板にはオリジナルが1592年と1910年に破壊されたことが書いてあった。もちろん日本軍である。せめて文化財を保存する程度の教養がなかったものか。


看板を見るたび,居づらくなっていくボクらにジョーが

「It's just histry.」

と声をかけた。バネッサもハナもフーンもうなずく。そう,若者たちみんなが乗り越えなければならない歴史だ。…と,ボクもいっしょに若者ヅラしたりする。


景福宮は法隆寺を三つ分ほどを歩いてもまだ奥深い。王宮は同時に李氏朝鮮500年の圧政の歴史でもある。王朝の背後には中国がいる。徳川幕府が華やかな町人文化を育んだのに対して,この王宮を一歩出た首都ソウルの中心街は,20世紀になっても茅葺きの小屋が並んでいたという。だが,その封建王朝を倒すのは外国の軍隊ではなくこの国の民衆であるべきだったろう。


一万ウォン札にデザインされている勤政殿を見て,五重の塔を見上げながら香遠亭の庭池のほとりに立った。今日は山登りこそなかったが黄鶴洞市場と合わせていったいどれほど歩いただろう。まだまだ奥があるそうだが,レンタカーの予約時間が近いので引き返すことになった。


用のあるバネッサと別れ,五人は地下鉄でミョンドンにあるロッテホテルに向かった。

ソウルの中心街にはハーツレンタカーの営業所が少なく,予約を入れるとき調べたら,サボイホテルから最寄りの営業所がロッテホテルだったのだ。ホテルに着くと,半地下の壁には畳8枚分はあろうかというポスターが並んでいた。数えると5人もの巨大なペ・ヨンジュンが,さまざまなポーズで「免税店で宝石買ってね」と微笑んでいる。もちろん日本語だ。車寄せにはBMWやジャガーにセルシオまで停まっていて驚いた。この国で外車を見かけることは稀だ。90%はヒュンダイで残りはキアかサムソン,トラックやバスにはデウーが多い。正面玄関を入って大理石のロビーを見回したが,レンタカーの看板はない。

ドレミがフロントに聞きに行くと,スーツの男と女が書類を持って現れた。そして,ロビーの隅に置いてあった小さな木のカウンターをひょいと運んできて置き,「いらっしゃいませ」と日本語で言った。何だか古い教卓のような即席カウンターで,すでに準備されていた契約書にサインし,クレジットカードを出す。するとそれまではソツなく応対していた女性が一瞬戸惑って男に助けを求めた。男は落ち着いてカードを請求書の間にはさむとポケットから取り出した鉛筆で猛然と擦り始める。確かに魚拓ならぬカード拓が取れ,ボクは笑いをかみ殺しながらも金額を確かめてサインした。どうやらレンタカーと言っても,宿泊客が運転手つきで利用する以外はあまり利用がないようだ。宿泊客ならば,契約も支払いもフロントでホテル側が行うだろう。

ボクらの車はSM(サムソン)518という黒いセダンでリアビューが美しい。フーンのマンションでトランクを積み,夕食は焼肉店に行ってメニューや注文の仕方を教わった。ちぎれるほど手を振る3人に別れを告げ,ボクらはSM518を高速に乗り入れた。夜の9時,南に2時間ほどの水原(スーオン)あたりで宿を探そう。見知らぬ国で,まだ宿も決まっていないのに夜道を走ることはボクたちにとって珍しいことではない。むしろようやく迎えた旅立ちに心が弾む。フーンたちはどうしているだろう。今頃は

「やれやれ,お疲れ様ー♪」

などと言いながら駅で別れている頃だろうか。ジョーははるか南東の蔚山(ウルサン)に帰るので,一度ソウルに戻って夜行列車に乗るのだろう。ハナも仁川(インチョン)までは2時間以上かかりそうだ。優しいオモニとアボジはきっと寝ないでハナの帰りを待っているに違いない。

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