07/ペクチェ!

Aug, 2004

朝,宿から500Mほどの公山城の駐車場に着いてから,この城に形として残っている百済の遺跡は蓮池だけであることに気付いた。ガイドブックにある「百済」の文字は,ほとんど城や寺の創建時についての記述で,現在残っている建物は当時のものではない。

駐車場の端が観光案内所だったので,ドレミが外国人向けの地図ガイドをもらってきた。英文の現地ガイドを読んでも,やはり百済時代の建造物は隣の町プヨ(扶餘)の石塔一基だけらしい。


目の前にそびえる錦西門に続く小山を見上げながら,蓮池のためだけにこれを登るべきか迷った。そのとき観光案内所の若い女の子が走ってきて,日本語版の地図と公州観光ガイドという立派な冊子を差し出した。カムサハムニダ(ありがとう)を連発しながら,ドレミの目がすでに登山を覚悟していた。


日本語版を捜してくれた彼女の手前,まさかこのまま車に乗ってプヨ(扶餘)に向かうわけには行かなくなった。靴に履き替え,ペットボトルの水をバッグに差して車をロックすると,またまた後ろにさっきの女の子が立っていて,今度は日本語版のCDガイドを探し出してきてくれたらしい。

「公州大好き!いざ蓮池まで!」

と,日本語で言いながらウインクすると,彼女は自分の任務が首尾よく完遂されたと確信したのか,始めてにっこりと笑顔を返してきた。入り口で100円ほどの入場料を払い,すでに熱くなり始めた坂道を錦西門まで登ると,もう全身水をかぶったように汗だくになった。凶悪な太陽は今日も容赦がない。

公山城の中は公園のように整備されていて,多摩丘陵あたりの城址公園を歩いている錯覚すら覚える。城内にもぽつんぽつんと民家があり,散歩している人とすれ違ったりする。城山の中腹付近に石橋があった。


蝉時雨の中,その手前を東に折れて下ると,きれいに整地された広場に出た。オレンジの花に囲まれて小さな寺の堂がいくつか並び,ここにも生活の気配があった。暑気あたり気味の飼い犬が気だるそうに首をもたげ,中央の堂では住職の奥さんらしい女性が仏具の手入れをしていた。


広場の端から見下ろすと浅葱色の大河がとうとうと西に流れている。昨日渡ったギムガン(錦江)である。歴史の教科書で有名な白村江は,少し下流である。楼閣がその美しい姿を河面に浮かべるように断崖に立つ手前に,巨大な矩形の穴が口を広げている。


蓮池だった。長辺が30cmくらいの直方体の石(あるいは煉瓦だろうか)で,かなりの深さまで積み下げ?られていた。往時はさぞや華麗な姿をしていたことだろう。


帰り道は谷を下って別の道を通った。その道すがら百済民族村というのが英語の方の地図にあったので寄ってみた。横穴住居のレプリカだった。縄文時代の三内丸山遺跡でさえ,竪穴住居のあとが発掘されているくらいだから,ここの歴史考証は見直す必要がある。

他にはトーテムポールのような柱や高床の掘立小屋が芝生に点在している。世界中どこに行っても「民族村」とはこんなものだ。蝋人形が住んでいないだけましな方である。

コンジュ(公州)からプヨ(扶餘)に向かう国道は,もはや日本の田舎道と全く変わらない景色だった。標識もそっくりで,字が読めなくても工事現場の出入り口や川の広さなどがすんなりわかる。油断してると車線を間違えそうなくらいだ。景色だけでなく,空気までが身近に感じる。プヨ(扶餘)は,百済の首都のあったところだ。7世紀の中頃,百済は新羅と唐の侵略を受けて滅んだ。時の天智天皇の決断で百済に援軍を送った朝廷は,白村江の戦いに敗れると,大量の百済人を近江に受け入れて厚く遇した。日本が世界史上に誇る難民救済であろう。

同時に百済の華麗な仏教文化,芸術,工芸なども流出して日本で成熟した。やがて百済人たちは日本全国に広がり,大和民族と混血してゆく。コンジュ(公州)やプヨ(扶餘)で感じる親近感は,日本人のDNAにわずかに刻まれた彼らの記憶が故郷を懐かしんでざわめくに違いない。

国道沿いに大きな蓮田があり,大賀ハスのような巨大で白い花が満開だった。平日とはいえ,日本ならカメラの砲列ができそうな規模だ。蓮田に渡してある木道を歩いてみた。人っ子ひとり見えない。


昔から蓮の花を愛する土地柄なのか,遺跡にも必ずと言っていいほど蓮池が残っている。目の前でおおぶりな花びらが風もないのにバラバラと落ちた。蓮田の南側は高速道路の工事現場で,赤土が露出している。

コンジュ(公州)で途切れていた高速がプヨ(扶餘)にも延びてくるのだろう。数年後には風景も一変するにちがいない。

その高速を待つプヨの町は想像以上に小さかった。大きな建物もなく,目指す仏塔もすぐにわかった。

歩道に唐がらしを広げて干している中年の婦人に,ガイドブックの写真を見せて入り口の場所を尋ねた。にこにこ顔で「すぐそこだよ」と指さしながら教えてくれる。

彼女の言葉がわからないことが不思議に感じるほど親しみを感じる。チゲ屋のミホコさんや観光案内所の女の子など町の人々さえ,なんだかとても懐かしく感じるのも,あるいは百済人の祖先の記憶だろうか。

定林寺の境内はがらんとしていた。町の中に巨大な長方形の空き地が広がっている。長方形の真ん中にやはり四角い蓮池があって,ここは水が張ってある。百済時代のもので底から土器や石器も発掘されたそうだ。公山城でもそうだったが,新羅も李王朝も池だけは破壊せずに利用したものだろうか。池の後ろに目指す百済塔が立っている。

仏塔のことを英語ではパゴダという。カリフォルニア州パサディナにある市立公園に日本庭園があって,そこに石のパゴダが立っていた記憶がある。ワシントンのポーツマス河畔を訪ねたときも,観光案内所でもらった地図に「Japanese Pagoda」と書いてあるのを見つけた。松ぼっくり拾いに夢中の母をせかして,池を半周して見に行ったら,やっぱりこんな形のミニ石塔が立っていた。どうも欧米の人は日本と朝鮮をごっちゃにしている感があるのだが,日本では木造建築のパゴダはあっても石塔はまず見ない。まして日本庭園に石塔は似合わない。たぶん,庭の設計者が石灯籠と勘違いして置いたものだろう。

百済塔はその黄土色がすさまじい。1300年の風雨に耐えて立ち続けた仏塔は,整備された周りの公園風景と不調和である。広い敷地にぽつりと立つ姿は百済という国を象徴しているかのようだ。この地にかつて華麗な文化を誇ったその国の痕跡はこの塔以外にはない。ボクたちはこの仏塔を見るためだけに忠清南道をここまで南下してきたのだ。


仏塔の後ろに真新しい仏殿が立っていて中に石の大仏が鎮座している。百済よりずっと後の高麗11世紀頃のものらしいが造形は素朴だ。

紀元前6世紀に仏教がもともとインドで生まれたときには偶像崇拝を禁じていた。それが北上してシルクロードに達しペルシャに伝わる。一方,アレキサンダー大王の遠征をきっかけにギリシャからは優れた造形技術が東進してきた。この思想と造形技術の衝撃的な出会いが「仏像」という芸術を生み出したのだ。ギリシャ系の工芸家や彫刻家はリアリズムに代わる新しいモチーフを得て「ガンダーラ美術」を大成する。

また,それまで一部上流階級の哲学だった仏教は,仏像によって大衆に広く信仰される宗教へと昇華した。大乗仏教である。やがて仏像はシルクロードを東に伝わる間に中国で儒教の影響を受けながら朝鮮半島に達する。ガンダーラの仏教美術が自由奔放な明るい芸術なのに対して,百済の仏像はストイックな宗教性と崇高な神秘性を持った美しさとして対極にあると思う。日本には6世紀初めに百済から伝わった。もし,仏教が南方経由でインドから直接伝わったとしたら,広く日本人に信仰されることはなかっただろう。大和の民衆は八百万の神として,巨木や巨石,山などの身近な自然を信仰し,純粋に自然と向き合って暮らしていたのだ。また,ペルシャから絢爛豪華な仏像が伝わっていても日本人の感性には受け入れられなかったにちがいない。

仏教が優美な百済の仏像とともに日本に伝えられたことの意味は大きい。そしてそれは信仰としてだけでなく,仏像や寺院などの仏教美術として,豊かな自然と融合して日本中に優れた作品を生み出していった。

1997年に「日本におけるフランス年」を記念して,自由の女神が友好の使者として東京のお台場に来て話題を呼んだ。そのとき,お返しに法隆寺の「百済観音像」がルーブル美術館で展示されている。美術家のはしくれとしては「百済観音と女神像ではちょっと美術的公平感を欠くぞ。せめてモナリザにするか,ドラクロアにモネとセザンヌくらい付録につけて欲しいもんだ。」と憤ったものだが,女神像が自由の象徴としてパリの人々に愛されていることを考慮すれば,「百済観音像」は単独の美術品としてそれに匹敵する価値をヨーロッパでも認められているという見方もできる。イベントを主導したフランスのシラク大統領が個人的に「百済観音像」にご心酔だったとも聞く。その「百済観音像」は韓国の歴史では日本が強奪したことになっているらしい。最近の調査では,百済では使用されなかったクスノキで彫られていることから,日本国内で作られた可能性が高いそうだが,同じく国宝の京都広隆寺「弥勒菩薩像」は百済から渡ってきたものだ。

ボクはプヨ(扶餘)定林寺址の石仏の顔を穴の開くほど眺めていた。11世紀といえば百済の頃から400年近く後である。風雨の浸食を考慮してもそのコイン型の頭部の素朴さは埴輪なみである。

少なくとも芸術史的には,百済の滅亡以後,この地の仏教美術は絶えている。日本に移住してしまったのだ。もし,百済の美術を求めて忠清南道を訪ねるのならそれは間違いである。日本の奈良や京都,そして近江を訪ねるべきだ。そこではその美術を継承してさらに成熟した姿まで鑑賞することができる。

名神高速が琵琶湖に向かって近江盆地をまっすぐ西に進む付近に湖東三山と呼ばれる古刹が集まっている。付近を蒲生郡といい,天智政権が百済人に与えた土地である。どの寺も山上のお堂に重文クラスの仏像がずらりと並んでいて度肝を抜かれる。仏像の素人でも時を忘れて見入ってしまうほどの素晴らしい造形だ。何年か前のGWに,ボクたちが湖東三山を訪ねたときのことである。最後に行った百済(ひゃくさい)寺が閉門時間ぎりぎりになってしまったのに,住職らしい方が快くボクたちを迎え,下山してくるまで門で待ってくれていた。

春の夕日の中で,住職はボクが尋ねるまま,昨日のことのように遠い昔を語り,織田信長の近江入りを非難した。お寺が信長の軍に焼かれたとき,当時の住職や僧たちは猛火の中で仏像を担ぎ,鈴鹿の山中に逃げたそうだ。仏像は近江に「残っている」のではない。彼らによって「残されている」のである。

定林寺址のお土産屋さんで笠を買った。300円ほどだったと思うが,さっそく笠をかぶろうとして,「made in China」の小さなシールに気づいた。

先日は日光土産の乾燥ゆばが中国製なのに驚いたが,ニューヨークなどのお土産屋さんでは中国製でないものを見つける方がたいへんなくらいだ。今や世界中のジャンクなお土産屋の大部分は中国製なのではないだろうか。


唐平百済塔の文字

百済塔が破壊をまぬがれたのには理由がある。唐と新羅の連合軍がプヨ(扶餘)を制圧したとき,司令官がこの石塔に落書きを命じた。「唐平百済塔」という文字で「唐が百済を征服した記念塔」という意味らしい。

その征服軍だった中国が今は発展途上国として,外貨獲得のため,世界中のジャンク品の製造元となっている。「唐平百済塔」の前で「made in China」の笠が売られているのも皮肉な話だ。

ジャンク品とはいえ,この笠は,麦藁帽子とは違いずしりと目が詰まっていて,このあとの道中,日笠としてはもちろん,雨の中でも大活躍した。国立扶餘博物館へは行かないことに決めて,ボクらはマイサン(馬耳山)に向かった。フーンが一押ししていた観光地である。着くのは夕方になってしまうが,ここまで来たのだから,マイサンまで行ってフーンやハナを驚かせたかった。ノンサン(論山)まで行けば,高速道路がある。

高速の入り口ではもう恥も外聞もなく車を停めてじっくり地図と標識を照らした。ジョンジ(全州)で高速を降りる頃,全羅北道の空は真っ黒に墨のような雲に覆われ,やがて激しい雷雨となった。峠では視界不良によると思われる事故があり,緊急車両がけたたましいサイレンを鳴らしている。

「こりゃ,ウマミミ山は見えないぞ。」

「仕方ないから看板の前で証拠写真撮って帰りましょう。」

ところが,あきらめていた空が,行く手の周辺だけぽっかりと薄く青空を覗かせた。

マイサン(馬耳山)がその名の通り,尖った二つの山容を見せる。麓の遊園地の大駐車場に車は一台もなかった。ひまわりやコスモス畑がブロックごとに作られていて,山を背景に美しく花が揺れる。ここで車を停めて証拠写真を撮った。標高も高いらしく涼しい。ボクらは何だかはしゃいでしまって30分ほどもここで過ごした。


テグ(大邸)に向けてまた高速を走ると,再び凄まじい雨になった。緑一面の田園風景に巨大な看板が立っていて,日本語の大きな文字が書いてあった。日本神話にある高天原がこの地だという説があるらしい。


慶尚北道,加耶の国である。任那は日本の植民地ではなく,金海付近を拠点にしていた倭人が帰化して作ったのが加耶国ではないかというのが司馬さんの推測だが真実に近いだろう。あたりの風景はプヨ(扶餘)よりもさらに日本に似ている。


日が暮れる前にテグ(大邸)に近づいたが,インターに向けて激しい渋滞になったので,ひとつ手前のインターで降りて,川沿いにモーテルを見つけた。長い距離を移動したのでかなり疲れた。


夕飯は無難そうな焼肉店にした。韓国の専門店ではロースもカルビも牛肉より豚肉が主流だ。店員さんが大きな鋏で焼けてきた肉を切り分けたり,鉄板をかえたりしてくれる。緑色の唐辛子があまりにも辛そうだったので,ししとうのように焼いてみようと鉄板に載せていたら,女の子が大受けしながら片付けてしまって新しい唐辛子を持ってきてくれた。


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