08/ウロクトン!

Aug, 2004

朝の渋滞が始まるテグ(大邸)の郊外,達城公園に沿って自動車専用道が南に進路をとった。首尾よくテグ(大邸)の中心街をさけてUの字に山の東側にまわりこんだことになる。道路が一気にローカルになってきたので,慌てて雑貨屋さんらしき店の前に車を停めた。ドレミが指さし韓国語を持ってパンを買いにいく。ボクは地図を開いて,友鹿洞につながる道が国道とぶつかるT字路付近の地名を暗記した。

1592年,慶長の役で海を渡った加藤清正軍の右先鋒将に,「サヤカ」という名の武士がいた。彼は3000人の配下の兵士とともに韓国軍に投降し,逆に日本軍を相手に奮戦する。儒教文化に心酔していて,「慶長の役は大義のない戦いだ」と投降の理由を語ったらしい。彼の軍は鉄砲技術にすぐれ,秀吉軍との戦いに数々の功績をあげたため,サヤカは李朝皇帝から金忠善という名と高い官位をもらいこの友鹿洞に住んだ。友鹿洞を中心に彼ら日本人の子孫も大勢いる。その一族が一年に一度集うのが慕夏堂で,その隣に,彼の人柄を偲んで村が建てた寺子屋が友鹿書院だという。

ドレミの買ってきたパンを分けて食べながら,ほぼ朝鮮半島のド真ん中を南下する。日差しは白熱のレーザー光線のように今日もアスファルトに照り付ける。対向車が左をすれ違うことを除けば,日本の例えば北上川あたりの田園風景と酷似していた。国道と並行して建設中の高速道路がきれぎれに視界に入る。高速が開通すると,この風景がどのように変化していくのか,日本中を旅してきたボクには想像に難くない。

「そろそろちゅーい!」

ドレミがT字路が近いことを告げる。ようやく膝に載せたハングルの地図を読みこなし始めているが,彼女にしてはむしろ遅いくらいだ。二人で看板のハングルを注視する。

例えばお店の屋号や公園に地名が使われているかもしれない。が,緊張のときはあっさり終わった。「友鹿書院1km→(右)」というチョコレート色の大きな漢字の看板があったのだ。数日のドライブ経験から言えば,この色の看板は有名観光地に使われているものだ。サヤカがメジャーになったのか,それとも,よほど日本人観光客が多いのか。とにかく次々と現れるチョコ看に導かれて,ボクらはあっさりと友鹿書院にたどり着いた。

書院のとなりには立派な資料館が建っていて,そこから若い女性が現れ,車から降りたボクらに

「ご案内しましょうか」

と日本語で話しかける。

なんだかちょっと違和感を感じながら資料館に招じ入れられ,日韓の国旗が並ぶ大広間の立派なソファーにぽつんと二人で座らされた。金忠善の遺した言葉が日本の書家の手によって墨痕鮮やかに書かれた掛け軸で三方の壁がびっしり埋められている。かなり異様な雰囲気である。小さい子なら間違いなく,泣き出してしまうだろう。

「じゅ,に,さんぷんです。」

と女性がビデオをセットすると,重厚な音楽にのせて,教育テレビのドキュメンタリのような金忠善の紹介映像が流れた。ビデオが終わると展示されている資料をひとつひとつ説明してくれる。最後の硝子ケースには今でも使えそうに手入れの行き届いた火縄銃が飾られていた。

「ワカヤマのギインさんがキゾウしてくれた…ニホンにも50チョウしかない…サイカ?ですか?」

「雑賀衆!」

ボクは思わず叫んでしまった。そして同時に違和感の原因が氷解した。和歌山の雑賀というのは,戦国時代,近江国友村と並ぶ鉄砲技術の中心地だ。国友村は鋳造技術を極め,戦国大名の注文を受けて当時すでに欧州をしのぐ高性能の銃や砲を生産した。関ヶ原で家康の使った大筒も国友製である。これに対して雑賀村は鉄砲専門の軍団を組織して,各大名の傭兵として活躍した。「サヤカ」と「さいが衆」…そして鉄砲。なんと説得力のある連想だろうか。その後の彼女の説明を総合すると,どうやら日本の史家か小説家が「サヤカ」=「雑賀衆」という説を唱えた。それに目をつけた和歌山のさる議員が友好協会を組織して和歌山県とテグ市を橋渡しし,友鹿書院の保存をバックアップしたということらしい。ときは日韓共催W杯の直前,政治家がサヤカの美談を利用したと考えるのは穿ちすぎかもしれないが,アマノジャクのボクは,どうもこの立派な資料館を「ハコモノ」と呼びたくなる。炎天下,「友鹿書院」の見学にもつきあってくれる彼女に

「あなたも金忠善の子孫ですか?」

と聞くと

「わたしはちがいます」

と答えた。現在,書院や資料館はテグ市が維持,管理していて,彼女もボランティアとしてテグ市から派遣されている。ボクの印象はともあれ,彼女のきめ細やかな配慮は,ほとんど感動的だし,心の底から歓迎してくれる笑顔からは,和歌山からの親善グループや朝日旅行の団体が礼儀正しく友好的であったことを想像させる。

「韓国のコッカを知っていますか?」

唐突に彼女は言って踊るようにそのピンクの花の前に立った。

「ムクゲです。」

炎天下,何日か旅してきたボクらはいろいろなところでその可憐な色合いに癒されてきたが,友鹿書院の槿はいっそう爽やかだ。

慕夏堂友鹿書院

説明を全部終えてほっとしたのか,急に年相応のお嬢さんに戻ってコロコロ笑う彼女と重なったからだろう。あるいはボクは,ここまで気難しい顔をした扱いにくい訪問者だったろうかと反省した。槿には夏空がよく似合う。
これだけ案内してもらって無料では悪いなあ。

「募金箱なんかありませんか?」

ボクは同じ思いらしいドレミとアイコンタクトしながら尋ねた。

「それでは本を買ってください。」

300ページほどの資料集を10000ウォン(1000円)で買った。気持ちも収まったところでサヤカの墓に詣でるために靴に履き替えることにした。

「私の知る限り日本人であそこまで登った人はいません。」

ガイドのお嬢さんが指さした裏山は深い緑に覆われていた。ドレミはもはや運命とあきらめているらしく,もくもくと日焼けどめを塗ったり,髪を結んだり登山準備をしていた。そのときである。

「東京都渋谷区のイマムラさん!」

「は?」

太い声がボクらを呼び止めた。ボランティアの真打ち登場であった。

にこにこ顔のおじさんは,ボクが母譲りの手で来館者名簿に書いた行書の住所,氏名を正確に読めるほど日本語が達者だった。個人の旅行者がレンタカーで訪問したことにかなり驚いていた。彼は木陰にボクを招き,ほぼ推定した通りの資料館(忠節館という名だった)の歴史を説明してくれた。

ボクは和歌山県に対抗し,いちおう司馬ファンを代表して「サヤカ」=「雑賀」説にクレームをつけることにした。

雑賀衆は鉄砲技術集団なので儒教にあこがれるほどの高い教養があったとは考えにくい。しかも鉄砲隊は足軽の身分として各部隊に雇われるので,三千の兵を率いる侍大将が雑賀衆ということは,秀吉軍の構成上ありえないのである。

また,雑賀衆は集団を指す呼び名なので,地名,あるいは鉄砲隊を意味する一般名詞としては「雑賀」を使う例があるが,代表者がそれを名乗ることは例がない。実際,ボクは日本を旅して,あちこちの城下町に雑賀町という地名を見かけている。司馬さんは雑賀については触れていないが,「左衛門尉(さえもんのじょう)」という官位について書いている。武士の得る位としてはかなり高い官位で,サヤカが持っていたと考えられる学者なみの教養ともかろうじて矛盾しないし,3000の兵を率いる先鋒大将にふさわしいことから,「サヤカ」は「さえもん」がなまったものと断定している。ボクは,

「戦国当時,公式には名前ではなく官位で呼びあうのが普通だったと思われる」

という私見を追加して

「やはり司馬さんの説が妥当ではないでしょうか」

と15分近く語った。

おじさんは日本旅行の経験も豊富だそうで,話に出てくる松江や大友村などの場所を確認したり,人名などの発音や漢字を聞き返したりしながら,熱心に相槌をうつ。真夏の妙な素人論客をいたく気に入ってくれた様子だった。

「ところで,二人の関係は何ですか?」

とボクたちに尋ねる。

「夫婦?!あなたはせいぜいにじゅっさいくらいにしか見えませんが!」

35才5ヶ月のドレミは困ったような笑顔で小首をかしげてみせた。二十歳はちょっとムリがあるだろう。

日本語の達人で歴史通だが,お世辞はちょっと下手なおじさんの笑顔に見送られてボクらは裏山への登山口に向かった。

めったに人の通らない山道は草丈も高く,道を見失いそうになるほどだったが,勾配がゆるやかになったところで黒山羊の親子と出くわした。

「アンニョンハセヨー」

と挨拶したがきょとんとこちらを見ている。

「やっぱり私たちの発音悪いのかしら。めぇえぇえぇ」

「めぇー」

子山羊の耳がぴくっと動いた。

「やぎ語は通じたらしいぞ」

「めぇえぇー」

「めー」

どうやら麓の農家の放牧地の端にあたっているらしい。暑さに耐えかねて木陰を森に求めたか,他にも数頭集まっている。友鹿里の名の通り,サヤカも鹿を飼っていたそうである。真夏の昼間では鹿には出会えない。山羊の一家は,あるいは遠来の墓参者に鹿の代理で顔を出してくれたものか。

「思い出すねー♪」

とドレミが言う。ボクも同じことを考えていて中国製の菅笠の下で苦笑いする。函館の郊外で土方歳三が守った砲台を探したときも,高知の古寺の裏山で長曽我部国親の墓を発見したときも,同じように真夏の炎天下に山道を踏み分けた。みんな司馬さんや池波さんの小説が動機だ。

十代の頃からドレミはいつもついてきていたが,元来の読書好きで,あっという間にそれらの小説を読破した。仕事でも高校入試の社会科を担当するうちに,いつの間にやら,年号も史実もボクより詳しくなってしまった。プヨの百済塔の前で,ボクが解説などしてるとき,逆に

「白村江の戦いは663年だから都はまだ大阪(難波)にあったはずだけど…」

などと訂正されるのも業腹である。中腹付近で下からも見えた送電線をくぐった。ますます函館の二股山のときに似ている。あれはもう10年以上昔なのに昨日のことのようだ。蛇に出くわして大騒ぎしたっけ。果たしてまたも,

「ぐぎゃああ」

と木綿をひきちぎるようなドレミの悲鳴。

「今度はとかげでしたー。」

サヤカの墓

針葉樹林が開けて,広く伐採された急斜面に出た。さすがにこの時期,訪ねる人はなく草丈は腰まであるほどだが,墓石は真新しい立派なもので,左右にはこれも真新しい武官と文官の像が配置されていた。当時を偲ばせるものは何もない。


友鹿里から東に向かう道路は快適な田舎道だった。うっかりすると左を走ってしまいそうなほど日本の景色だ。ボクは小さなくしゃみをふたつした。

友鹿書院の裏山を登ったあと,水をかぶったように全身に汗をかいたまま車に乗ったので,濡れたTシャツにエアコンがかかって氷のように冷たい。もともと友鹿里で宿をとり,一日ゆっくりとスケッチと読書で過ごす予定だったのが,あまりの暑さに加え,田園風景が日本と似すぎていて写生の食指が動かなかった。そこで一日早くウルサン(蔚山)に向かうことにしたのだ。ウルサン(蔚山)ではジョーが待ってくれているので予定変更を連絡しなければならない。

サヤカの墓から下りてきて,電話を借りに資料館に戻ったところで,今度はドレミが解説士のおじさんにつかまった。おじさんはひどくボクらの行程を心配してくれて,ジョーの携帯電話にも自分の携帯から電話して何やら長く話しこみ,ドレミには何枚も繰り返しウルサンへの地図を書いてくれる。

おじさんの説明が4巡目に入ったところでボクらはお礼に日本茶の袋を差し出しながらヘイシンテイトウ,キョウシュクシゴクの姿勢のまま後退りするように車に乗り込み,なお心配そうに見送ってくれる彼らに最敬礼しながら別れを告げた。

友鹿洞の村は,司馬さんが訪ねた30年前やNHKが取材した15年前と変わらぬ佇まいだった。


川沿いの広場には村人が休み,テントの野菜直売所にお客の姿はない。おそらくはサヤカの子孫たちである彼らに日本語で話しかけてみたかったが,おじさんがジョーに電話したとき,正確にウルサン到着時間を伝えているので長居はできなかった。

「はーっくしょおん」

濡れたTシャツで背中がゾクゾクしてきたので東に向かう国道に折れたところで路肩に車を寄せた。

「やっぱり着替えて。風邪ひいちゃう」

とトランクに回ろうとするドレミを制して,ボクはTシャツを脱いで後部座席に干すように言った。

「しばらく裸でも捕まったりはしないだろ」

コインランドリーというものがないため,ドレミは毎晩宿やモーテルの浴槽で裸のまま洗濯物と格闘している。ひとつでも洗濯物をふやしたくない。ドレミが膝掛けに使っていたタオルをボクの首に結んで,桃太郎さんみたいだと笑った。

「金太郎じゃなかったっけか」

とある町のバイパスが国道と合流する手前でタイミングの悪いことに検問をやっていた。何の検問かわからないが他地区ナンバーの車が止められているようで,もちろん我がサムソンSM520ははるかソウルナンバーだ。韓国人は人前で肌を見せるのをきらう。サッカー選手がゴールを決めたときも決してユニフォームを脱いだりはしないらしい。

「裸で運転したらやっぱり違反かなあ」

小心者の金太郎はタオルの前かけを握って緊張した。

「#$%&!」

検問のおまわりさんは日本のようににこにこ話しかけはしない。

フーンが出かける前に

「警察に捕まったらとにかく日本語で切り抜けて。」

と言っていたのを思い出し,ウインドウを開けるなり日本語で

「何かあったんですかー。ボクたち観光でウルサンに行くんですけど…。」

ドレミが後ろから

「イルボン(日本人)カンクワン(観光)」

を繰り返した。予想もしていなかった展開にうろたえたおまわりさんは身ぶり手ぶりで必死に応えた。

「うるさいからとにかく窓をしめて早く行ってくれ」

加智山を南に越える峠にさしかかると,一面のりんご畑になった。国道沿いのあちこちに小屋やテントの直売所があるのも,長野や青森と同じだ。

ドレミがうずうずしている。ボクは山盛りのりんごを買ったあとの保管を思って躊躇していたが

「二個買ってくる♪」

言葉もわからないのに,売り子さんと談笑しながら,まだ青いもぎたてりんごを二個だけ購う。

男にはなかなかできない芸当だ。ボクはこの日の夕飯がりんごだけにならなかったことを感謝しながら,ふじに似た果実をかじった。酸っぱかった。

ウルサン(蔚山)市内の目抜き通りは日本の地方都市そっくりのビル街だったが,駅に近づくと,驚いたことにきらびやかな巨大モーテル街になってきた。旅行者にはなんともありがたい。ずっと宿探しに苦労しているボクたちはひときわ豪華そうでアルファベットいっぱいのネオンを今夜の宿にすることで意見が一致した。駅のロータリーには,無料の大駐車場があった。

約束まで小一時間ほどだが,例によって30分ほど遅れてジョーが現れるまでボクは車の中で眠った。駅の待合室で半分ほど残っていた文庫本を読了してしまったドレミも

「It's Korean time, isn't it?」

とNYC以来慣れっこだ。

あるいは急速な携帯電話の普及が日本でも韓国でも若者の待ち合わせ時間をルーズにしているのかも知れない。「ごめーん(汗)あとふた駅で着きますm(__)m」なんてメールか電話を約束時間に入れておけば,遅れた感じがあまりしない。若者にとっては約束時間からが純粋に待ち時間なのだ。逆に「君の名は」世代のボクの母などは約束の30分前を目指して家を出るので,はざまの世代のボクらはそのギャップに苦しむ。

ジョーの携帯が鳴った。友鹿書院の解説士さんからだった。無事についたか心配で何度も電話を下さったそうだ。きっと「君の名は」の世代だろう。

(ありがとう。ボクたちは無事着きました。)

ボクたちは電話に向かって手を合わせた。

ジョーといっしょに来ていた友だちが手を振りながら帰っていった。

「あれま。いっしょに案内してくれる友だちって彼じゃないのかなあ。」

「彼は会いに来てくれただけで,別に今からジョーの彼女がくるらしいんだけど」

ドレミもジョーの英語はよくわかわからないようだ。しばらく待っていると,逆光の中をヨンエがかけてきた。意表をつかれた。

「ジョー!いつのまにこんな可愛い子と知り合ったんだー!」

ヨンエはとても恥ずかしがり屋で,4人でジョーの車に乗っても決して英語を話さなかった。

「Shuは言ってる。日本と同じで…」

「英語でわかったわ。」

「何だい。じゃ自分で話してみろよ。」

「ううん♪おつかれさまって言って。」

ヨンエは一言ごとに両手でジョーの腕を取り,つねる仕草をする。ボクは

「ジョー。こういうとき日本では,『ごちそうさま』って言うんだ。」

と教えたが,うまく意味が伝わらなかった。ボクの英語もたいしたことはない。

ジョーの車は加藤清正の出城,西生浦倭城に向かっている。


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