04/松浦党

Aug, 2005

梶谷城跡

ボクたちが今旅する松浦町から平戸,そして五島沿岸はかつて海賊の本拠地だった。おそらくは操船術に長けた勇敢な若者ちが貿易風に乗って唐の沿岸まで物々交換に出掛けたのが始まりだったろう。やがて交易が盛んになると大和朝廷政府に公認されず不満を持った集団が次第に盗賊化してゆく。古代,大陸人にとって日本人とは「裸に褌,背中には長刀の盗賊」だったそうだ。松浦,平戸海賊のイメージだろう。倭寇である。

彼らの恐ろしさは突然に村を襲い略奪して風のように去ってゆくことだ。唐政府も大和政府も防衛,取り締まりの手段がなく組織化されていないので交渉の窓口もない。やがて大唐帝国滅亡の主因とまでなる。

松浦の海賊が日本史の表舞台に登場したことは三度ある。最初は中大兄皇子(天智天皇)が百済に援軍を送ったときで,瀬戸内の村上水軍とともに渡海し白村江で大敗を喫した。

戦略を練り陣型を固め陸軍と連携して待ち伏せした唐と新羅の連合軍に対して指揮官阿倍比羅夫は四たび突撃を命じたらしい。ゲリラ戦では無敵の海賊たちも統制のとれた唐の水軍の前に1日で壊滅した。戦死者数万沈んだ船は400隻と言われる。

梶谷城跡の看板は小さくて通り過ごしそうになった。狭い道を海崖に向かって登りつめたところで車を降りて小道を50メートルも登ると,いきなり視界が開けた。

10世紀になって平戸,松浦の海賊を中心に興った武士団松浦党の本拠地がここ梶谷城だ。松浦水軍が再び歴史に登場するのが鎌倉時代の元寇である。兵2万5千余,船九百隻という圧倒的な兵力と当時の近代兵器で対馬,壱岐から松浦半島を侵略したフビライの軍に対して松浦党は各地で激戦を繰り返した。神風と呼ばれる暴風雨によって元の大軍が二度とも全滅したのは松浦水軍らの死闘によって上陸が阻止されていたからに他ならない。

そして松浦水軍最後の大舞台はボクたちが今朝訪れた名護屋城だった。戦国時代,信長の登場によって,日本の戦闘は大規模戦略化しその中で補給や輸送に欠かせない水軍のの重要性は飛躍的に高まった。局地戦の勝敗も制海権が決するようになってゆく。戦国時代最強の水軍と言えば伊勢の九鬼水軍と瀬戸内の村上水軍,それに松浦党だろう。戦国後期の権力闘争の中で優秀な水軍の争奪戦も激しさを増していく。最後にそれを日本水軍として統一したのが豊臣秀吉である。

秀吉はその人柄ばかりがクローズアップされるが,陸海軍,兵站,補給,調略,交渉…あらゆる面で抜き出ていた。彼が戦国時代の最終勝利者になったことは当然の結果だろう。

1592年,韓入りにあたって名護屋城を埋めた軍勢は25万(うち渡海したのは15万)。呼子の海には名だたる水軍が旗を並べる。ボクの想像する限り,それは世界史上最も華やかな軍隊であったろう。希代の派手好きだった信長,秀吉の影響で武将たちの甲冑には,源平以来の伝統美に加え,南蛮の意匠(ヨーロッパのデザイン)がふんだんに取り入れられていた。

また大名たちにとってこの戦さはいわば豊臣政権に対する忠誠心をアピールする舞台でもあったから軍の装飾が激しく競われたことだろう。そもそも武士団は日本独特の主従関係を持っているので戦場は個々の戦士にとってもアピールの舞台だ。甲冑,馬具,旗差し物は本陣にいる指揮官に一目で武功の主がわかるよう意匠がこらされる。それには室町時代,急速に発展した織物染色の技術が大いに貢献している。偶然にも安土桃山時代のことを織豊時代とも言う。

きらびやかな軍容を乗せた松浦水軍がこの海を埋めつくす光景を,ボクは梶谷城跡の高台にあるベンチで熱く語った。退屈そうに聞いているのはドレミと海風だけだ。蝉時雨の炎暑の中を石垣以外何もない古城跡に訪ねてくる人はいない。

梶谷城を下ったボクたちのファミリアは国道204号線を平戸に向かって快調に走る。秀吉によって倭寇が禁止されて400年余り,松浦にはすっかり落ち着いた漁業と造船の町が続く。美しい海が見えかくれする。同じ海を去年の夏は韓国の沿岸から眺めた。

理不尽な侵略を受けた側から見れば,豊臣軍は極彩色に飾り立てた悪鬼羅刹に見えたことだろう。倭寇を禁止した秀吉こそが史上最大最悪の倭寇の首謀者であった。壊滅した朝鮮半島を救ったのは,水軍を率いた李舜臣であった。日本水軍は統制のとれた朝鮮水軍に各地で敗れ陸の日本軍は孤立した。東シナ海を震撼させて,中国史に大きな影響を与えた倭寇松浦党はこの海戦に敗れ歴史から消えた。

松浦氏は子の均分相続を原則としていた。女性の相続権も認められ,地頭にまでなった女性もいたそうだ。所領は小さく分割され民主的な合議制で党が運営された。しかしそのためにかえって九鬼嘉隆や李舜臣のようにカリスマ的な統率者には恵まれなかった。松浦海賊はついに党から軍にはなれなかったのである。

平戸


西国の日暮れは東京に比べて1時間は遅い。平戸大橋を渡ったのは4時頃だったが,空は明るく町歩きにはちょうどよい時間になった。

折しもお祭りの日らしく浴衣姿の町の人が港の広場に向かって三々五々に歩いてゆく。

市役所の駐車場が近在から祭りに来る人のために開放されていて,誘導されるままちゃっかり停めさせてもらった。

祭りの喧騒を通り抜けて斜面に残る史跡を訪ねるために小山の坂道を登る。港をはさんで平戸城のある丘とその小山が向かいあっていて,ちょうどミニミニ長崎といった地形になっている。

歴史的にも江戸時代の鎖国政策によって長崎の出島が唯一の貿易港となるまで平戸は長い間南蛮貿易の中心港であった。坂道や町並みは長崎に残るものとよく似ている。中国福建省のヒーロー鄭成功の生誕地でもある。

記念碑や足湯などは最近作られたたもので見るべきものはなかったが,丘から見下ろすと港付近に重なる瓦屋根が美しかった。

目に見えて消耗しているドレミがきょうも宿をとらないと主張する。車の修理代やレンタカーは思わぬ出費だったので少しでも節約しようと考えているのだ。整備不良の責任者たるボクは反論できない。

夕暮れになって祭りはいよいよ盛り上がっていたが,疲れ果てた旅人にとってその賑わいは何だかかえって寂しさを誘う。ボクたちは祭りに向かう人の流れに逆行して歩いた。

「ねえ,夕日見に行こうよ」

ドレミが振り向いて言った。

「そうだな」

台風がゆっくりと東シナ海を北上していて,西の空の天気は良くないが,せっかく九州の西端にいるのだから平戸島を突っ切ってみようと思った。海岸線に出て人気の去った海水浴場の浜で夕日を待ったが厚い雲に隠れた太陽はそのまま行方不明になった。iモードタウンページで最寄りの銭湯を検索するとずっと南の佐世保の町しかヒットしない。

ドレミが電話で営業時間を確認している間にボクは販売機に飲み物を買いに行った。

「さて,問題です。飲み物は何を買ってきたでしょうか」

ドレミがきょとんと返事に窮する。

「はい♪正解はダ○ズのすすめです。」

CMの児玉清さんの口マネでまんまとドレミの笑いをとった。

「佐世保の銭湯が10:30までだって」
「行くか」
「ダイズのパワーで?」

夜に向けての移動は体力面で心配だったが笑っているうちに二人とも元気が出てきた。

佐世保のラーメン屋

9時頃には佐世保市内に入った。地方都市としては遅い時間にもかかわらず交通量が意外に多い。

「佐世保バーガー食べたい」
「まずお風呂だろ」

レトロな佇まいとその土地のことばを味わうなら銭湯に限る。タイルの浴槽に身を沈めると疲れがゆっくりと消えていった。天井越しにドレミに

「そろそろ出るかー」

と,声をかける。

銭湯からあがると目の前がラーメン屋さんだった。大きな赤ちょうちんが食欲を刺激する。

「佐世保バーガーはいいのか?」

「どうしようかなあ」

と言いながらもう戸を開けてしまっていた。すべてカウンター席の小さな店内に先客が10人ほどもいる。老店主の「らっしゃい」まで妙な間があった。

一瞬雰囲気に異常を感じたが見知らぬ町の店では最初違和感を覚えることもあるだろうと思い直し注文しながら腰かけた。やはり空気が重い。理由はすぐわかった。職人気質の店主はどんぶり3つ,麺3玉ずつしか作らない。スープも一椀ごとに調味して味を見ている。それが傲然としているわけではなく額にびっしり汗を浮かべて必死に作っているのだ。麺があげられる。先客10人の20の目がその手先をじっと見つめる。

みんな若い男女だが店主の迫力に気押されてこちらも額に汗を浮かべたまま私語もない。4人グループのうち3人がラーメンにありついた。30分はゆうに待たされたのであろう。若い女の子はどんぶりを捧げ持つように受け取り思わず

「ありがとうございます」

とつぶやいている。ボクは吹き出しそうになるのをぐっとこらえた。テレビで甲子園を伝えるスポーツニュースと3人がひたすら麺をすする音だけが響きほかに音はない。またみんなひたすら老店主の作業を見つめている。麺類とは別行程でボクの注文した餃子が焼き上がって,小ジョッキとともにゴトリと置かれた。尚も待ち続ける先客たちの唾を飲み込む音が聞こえるようだ。

また,一組,客が来たが

「あい,すみません。麺が終わってしまって」

と店主に言われ残念そうに帰って行った。ようやくボクたちの前のグループにラーメンが回りはじめると,やはり女の子がすまなそうに言った。

「すみません。お水をもらってないのですが。」

これにはボクも驚いた。彼らは水さえ口にせず蒸し暑いカウンターで小1時間も耐えていたのか。店主は平身低頭。偶然にも冷水機の側に座ったため,自分でくんだ冷たい水をぐぐっと飲んでいたボクたちは彼らのことに気づかなかったことを恥じ二人でコップリレーをかって出た。少し場の雰囲気が和んだ。

「ほいさほいさ,すかっ!!」

って,あれ?麺に続いて冷水も終わってしまったようだ。

店主があわてて氷を出している。無言の二人の男の子の目はうつろで遠くを見るように澄んでいた。最近の若者は我慢がきかないとよく言われるが,少なくとも九州男児については例外ではないだろうか。最後のラーメンをボクたちに出し終わって店主はがっくりと厨房の腰掛けにへたりこんだ。

「こんな時間に満席になったのは始めてだよ。」

ボクに向かって話しかけてはいるがみんなに向かって言い訳のつもりだろう。確かに美味しい。若者ばかりのところを見るとインターネットに情報が書きこまれたのかもしれない。だとすると老店主のご難は明日も続くだろう。

佐世保から今夜の宿に決めた西海の道の駅に行く途中にハウステンボスがあるのでさかんに標識が出てくる。

ぴぴぴぴぴ。

「プレリュードに比べれば今夜のファミリアはスイートに泊まるようなものですね。」

携帯に世話になってる中古自動車屋さんから入ったメールを見てボクはまた苦笑した。

「返信:今夜は寝返りがうてます。」

唐津のマツダで借りたスイートルームは西海橋を渡って西彼杵半島に入った。

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