06/海の道

Aug, 2005

諫早干拓

最初黒の中に白い四角が見えた。やがて四角が窓だとわかった。ゆうべ中華街の「西湖」でジョッキを飲み干しながら,

「あしたは朝食前に平和大行進に少しだけでも参加してみようよ。」

などと話していた。旅の始めに広島の式典に参加することができたが,偶然長崎もこの日が原爆記念日だったのだ。ヨコでもぞもぞとドレミが目覚めた。

「何時だろ」
「9時半…」

気絶するように寝たのが夜の9時過ぎだったから,12時間もこんこんと寝ていたことになる。

「たいへん!寝坊したーー!」

ドレミの叫び声でようやく意識がはっきりした。緊急事態である。朝食前のお出掛けどころかチェックアウトの時間まで30分。二人は部屋中に吊された洗濯物と広げられた荷物を見回して顔を見合わせた。

「いくぞ!」

こんなときは命令系統をひとつにすべきだ。ドレミ隊長の指示に従って猛然と荷造り,シャワー,身支度が始まった。前夜何度かに分けて運び込んだ荷物を,まとめて身体中にぶら下げエレベーターに飛び乗った。チェックアウトはぎりぎりセーフの10時ジャスト。ボクたちはこの日の予定を相談する間もなく車の流れに押されるように慌ただしく長崎をあとにした。

島原半島は西回りするコースを選んだ。残念ながら普賢岳は雲に覆われて見えないが一面に広がる畑の土は真っ赤な色をしている。溶岩や火山灰を長年かけて畑土に改良したものだろう。島原は雲仙が作った火山島なのである。

記憶に新しい普賢岳の噴火は1993年から94年にかけてだった。当時偶然通りかかった火砕流の被害地域には埋まった車の後部だけが土砂から突き出ていて,民家は地面から直接二階の窓だった。今はそれらが丸ごとガラスケースに入って展示施設の室内に保存されている。まわりは道の駅として整備されお土産屋さんでは火山まんじゅうが売られていた。

小浜の町で地図を買うことにした。国道に面した共同湯しか行ったことがなかったが歩いてみると町並みもなんだかとても良い風情だ。散歩してみたかったが本屋を捜しただけでもへとへとになるほどの強い日差しに閉口して車に逃げ帰った。さすがに町の人もあまり外には出かけないようでたまに出会う人も日陰を拾って歩いている。

長崎半島と国見半島,それに島原半島が集まるつけねに位置するのが諫早市で,その東側が諫早湾だ。

堰が閉じられた1997年の夏,ボクたちは新聞記事で知った「干潟にバケツリレーで水を戻そう」という市民運動に参加しようとはるばるやってきた。そのときに見た光景を忘れることができない。干潟には白い貝や蟹などの死骸が塁塁と続いていた。僅かに残っていた湿地には無数の小さな生き物たちが死を待っていた。近くには「むつごろう館」とかいう白々しい名前の豪華施設がオープンしていたが,水槽の中のムツゴロウを見る気はなかったので行かなかった。干拓現場とその周辺では,土砂を運ぶダンプカーの制限速度が時速5キロだった。人が歩くスピードと変わらない。高台から見下ろすと,点々と列を作るダンプカーがじわじわと僅かずつ干潟に向かって進む不気味さはちょっと言葉にできない。周辺住民に配慮した速度制限だったらしいが,配慮というよりはやましさを隠す意図に思えたのは穿ち過ぎた見方だろうか。

結局,バケツリレーはお盆休みだった。ボクはせめてもの意思表示に,堤防から水彩スケッチ用に持っていた水筒の水を干潟にまいてきた。あの日歩いた干潟も,今はもう完全に埋め立てられている。

ボクのような旅をしていると,まるで工事すること自体が目的としか思えない公共工事に日本中で本当によく出会う。大規模ダムもコンクリートの護岸も欧米ではもう時代遅れだという。雑木林や里山を丸坊主にして,自己満足も甚だしいおかしな形のコンクリート施設がやたらに建ってほとんど使われない。干潟や吃水湖は容赦なく埋め立てられる。宍道湖や中海の埋め立て工事も,予算さえつけば,いつ再開されるかわからないというのはホントのことだろうか?

資本主義経済では大規模な公共工事で税金を使うことは景気対策に必要だという。国税を地元に誘導することが政治家の仕事だと思っている代議士がゼネコンと癒着して予算を引き出す。いいでしょう。そんなに工事がしたいならすればいい。ただし,その工事は,破壊した自然を元に戻す工事にするのはどうだろうか。地域性を知る地元の建設業者の力が必要だし,専門家や研究者,管理者などの人材も必要なので,幅広い雇用が生まれるだろう。そして未来に残す自然の宝物が増えてゆく。ノウハウが蓄積すれば,やがて海外にその技術を輸出することもできるだろう。

手始めに長良川とこの有明海からいかがなものか。信じられないような屁理屈を並べて,堰の有用性を譲らない行政機関も,工事さえできるならと手のひらを返すように賛成することだろう。そうなったら税金なんか喜んではらっちゃうのに。あ,でも,海上(かいしょ)の森はさすがに地元の巨大自動車メーカーに,責任持って直ちに元通りにしてもらおう。実際,アメリカでは,この自然回復事業が大企業に義務づけられているそうだ。

肥後の石工

なぜ思い出話ばかりで実際に立ち寄らないのかというと暑すぎるのだ。エアコンが目一杯なのにじわじわと汗をかいてくる。車を停めて外に出ると気温は明らかに体温を超えている。

天草灘に臨む小さな眼鏡橋はこの小浜の町外れにある。ここはどうしても写真を撮りたかったので覚悟を決めて車を降りた。

「肥後の石工」という。有名な岩永三五郎と弟子たち,あるいはその工芸建築技術全体を指すことばなのかもしれない。石橋の研究をしている人によれば全国に残る石橋の70%が熊本県にあるそうだが,佐賀,福岡,長崎,鹿児島など周辺の県にもよく残っている。構造的には断面が等脚台形になるように切り出した石柱を横にして,弧…正確には正多角形の一部…を描くように積んでいくと接着することなしに頑丈な橋ができるのだが数百年もびくともしない技術の細部については現代の工学技術でもまだ解明されていない。

暑さはピークに達して地面近くの空気が歪んで見えるようだ。容赦なく降り注ぐ日射しの中を撮影を終えたボクたちはそろそろと駐車場に戻る。まるで熱いお湯につかっているときのように空気をかきまわすと余計に暑いからだ。丘の緑がまぶしいほど青い。このあたりの棚田を高台から見下ろすとまたとても美しいのだが,


「こりゃたまらん。車から降りるのはもうやめて天草に向かいながら日が傾くのを待とう。」

「う,うん。」

と暑さにへこたれてしまって車に乗った。

口之津のフェリー乗り場にはちょうど10台ほどの列ができていた。列に加わってから車を降りると

「あれ?」

狂暴な暑さがふつうの暑さになっている。わずかにそよぐ風の向きも正常な海風だ。

東シナ海のはるか沖をゆっくりと台風が北上しているため九州付近の風が台風に向かって東から雲仙を越え小浜付近にフェーン現象をもたらしたものと思われる。

気温は標高が100メートル上がるごとに0.6度下がる。山を越えた風が下るときにはその逆だが途中で雨や霧を降らせてしまうと,空気は乾燥して100メートルあたり1度以上の温度上昇をするようになる。その結果高い山の風下は風上より気温が数度も上がってしまう。これがフェーン現象だ。

ボクは晋賢岳を覆う雲を振り仰いだ。どうやらボクたちを襲った熱波はあの雲に原因があったようだ。

車検証を持って乗船手続きに行っていたドレミがコーンのチョコレートアイスをかじりながら戻ってきた。

「いる?」
「いらない。」

乗船前である。旅好きなボクの唯一の弱点は船に弱いことだ。

ゆれる桟橋を歩いただけで酔ってしまう。どうしてもフェリーに乗らなければならないときも最短航路を選ぶ。函館には当然大間から乗るし,四国から九州に渡るときは佐多岬の突端まで車で走る。口之津から鬼池も30分余りの航路だ。船がゆっくりと接岸してきて日陰にいた人たちが車に戻ってくる。船には弱いがローカルな乗船風景は大好きである。やがて出港した。海は静かでほとんど揺れない。船室でじっとしていたボクもこれならばとドレミに誘われるまま甲板に出てみた。

原城跡のなだらかな丘が船の右舷後方に広がってくる。あの丘を何度訪ねたろう。城跡から眺める雲仙の景色は哀しいほどに美しい。

1637年,14才の少年天草四郎時貞を大将に天草,島原のキリスト教徒が起こした一揆は12万の幕軍に原城を包囲されてついに鎮圧された。被差別地域だったこの地方の暮らしは島原藩と唐津藩の圧政下で窮乏をきわめていたという。自由と平等の思想を掲げた異国の神のもとに立ち上がった人々の燃えるような信仰心がこの地を訪れるたび胸に熱く去来する。

旧暦8月の最干潮時に姿を現すという原城本丸沖合いに浮かぶ浅瀬は,「リソサムニューム」という世界的に珍しい植物の死骸が堆積したもので,その一部を原城跡の断崖から見たことがある。まるで骨のように白い。島原の乱から130年ほどのち,地元で遺骸の集骨をして地蔵を立てて供養したと言われる。

ほねかみ地蔵に花あげろ 3万人も死んだげな

ちいさな子供もいたろうに ほねかみ地蔵に花あげろ

八波則吉

船室に戻るとたいへんな騒ぎになっていた。大型スクリーンに映し出された甲子園で地元長崎の初出場校が優勝候補の愛工大名電を敗ったのだ。歓喜に包まれる船内でボクは平和をかみしめつつも,少しずつ船酔いが悪化していった。調子に乗って甲板で写真など撮っていたのが悪かった。

鬼池港の周辺には「いるかウォッチング」の幟がたくさん立っているが

「あーあ,いるか見たかったなー。」

とドレミはすでにあきらめている。ボクはと言えば口を真一文字に結び青い顔で運転していた。しばらく走ると少し気分が良くなってきたので,彼女の期待に応えて再び船に乗る意を決し,イルカの看板の出ている小さな港の駐車場に入った。横を見ると当のドレミはもうすーすー寝ているではないか。ほっとしたボクが彼女を起こさないようにそっと国道に戻ったことは言うまでもない。

天草下島の西側を貫くバイパスは全通していた。浦から浦へくねくねと越えていた峠をトンネルで次々に抜けていく。この調子ならドレミが目をさまさないうちに崎津についてしまうかもしれない。

天草といえば大江天主堂が有名だ,絵を描いたり写真を撮ったりするなら断然崎津がおすすめである。バイパスが町外れを抜けているので崎津の町並みは以前と少しも変わらなかった。

お気に入りの岸壁に車を停めてカメラを構えた。どうだろう,この漁村に立つ天主堂のたたずまいは!ドレミが車の中でのびをした。ボクはしばらく望遠レンズを振り回してファインダー越しに,とんびを追った。十数年前と変わらぬ景色の中,夏の日は長く,一瞬ときが止まっているのではないかと錯覚する。

町の裏山にある展望所まで長い階段を登ると,天草の島々がゆっくりと西日に染まり出した。

「海岸に下りて夕日見ようよ。」
「うん」


ふだん夕方がいちばん忙しい仕事をしているので旅に出るとどうしても夕日にこだわってしまう。大江あたりでバイパスを外れて海に向かうと,何台か海水浴帰りらしい車とすれ違った。一本道の突き当たりに美しい入り江があってちょうど誰もいなくなった浜はプライベートビーチになった。岩場でドレミがはしゃぐ。

「ねえ,これ何?わー!気持ち悪い」
「なまこ」
「これはー?イソギンチャクかなぁ?」
「ウニだよ。食べてみるか?」

ドレミが棒きれではさんでウニを岩の上にあげた。

「こんな小さいのを採っちゃうと漁師に叱られちゃうかもしれないけど,まあ二個くらいいいだろ。」


ウニを割ろうと石を振り上げると

「あっっ!」

ドレミが小さく叫ぶ。

「な,なんだよ」
「何でもない。」


「よーし,いくぞ」
「あっっ!」

「ふうむ…やっぱり小さいから海に返してやるか。」

まぐろは直方体,豚肉は薄切りでトレーに並んでいないと食欲が出ない都会っ子の二人だ。岩場でウニを叩き割って食べるのはちょっと困難である。

いつだったか居酒屋で出てきた活き造りを

「すみません,とどめをさしてやってください。」

と,店員に頼んだことがある。ただのお刺身にしてもらってから砂をかむ思いで食べた。まったく日本人の風上にも置けない。

楽しみに待っていた入り日は残念ながら手前の岩陰に沈んでしまった。

夜道を走り下島と上島を結ぶ美しいループ橋を渡った。

日が暮れても心配ない。何度も旅している道だ。立ち寄り湯に浸かりコンビニで買い物して勝手知ったる道の駅の駐車場に車を入れた。涼しくなって夜空には低い雲がたちこめた。明日はいったん唐津に戻ることになる。愛車は直っているだろうか。

「ねえ,見て見て」

ドレミがおかしそうに示した焼酎のラベルに,「製造,熊本県…」と書いてあった。東京を出るとき買っておいた焼酎である。ボクたちと一緒に里帰りしたことになる。コンビニで買ったクラッシュアイスのカップにそれを注いで飲む。一気に眠気がさしてきた。

エンジンを切ると波の音がした。

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