09/草千里

Aug, 2005

真夜中の草千里駐車場は霧の中だった。ヘッドライトの前に立つとお化けのように巨大な自分の影が霧のスクリーンにそびえる。車の中で横になっても大自然の圧力のようなものを感じて寝苦しくなり再び車外に出た。霧の中にかすかに灯りがある。近づいてみると自動販売機だった。ほっとしながらコインを入れようとして近づくと集まっていた蛾が一斉に飛び立った。

「ぎゃーああぁ」

絹を裂くようなボクの悲鳴。霧の中を脱兎のごとく車に逃げるともののけの気配が背後から追ってくる。素早く車中に滑り込んだ。ドレミがすー,すーと寝息をたてている。およそお化けの恐怖とか神への畏怖心とは縁のない妻である。それらの存在を頭から信じていないのだ。この夜ボクはヤマタノオロチに正体を見破られて襲われる夢を見た。見破られたボクの正体が何なのかはわからない。

目が覚めると,もう20台ほどの車が来ていた。

「すわ!寝過ごした!」

一番乗りで,人のいない草千里の写真をモノにしようと狙っていたのだ。

慌てて飛び起きたが草千里はなお霧の中だった。機関銃のようなレンズを抱えたアマチュアカメラマンたちも退屈そうにしている。

「何だかなー,一番予報のいい日を狙ったのに…」
「慌てない慌てない。そのうち晴れるよ。」

確かに霧は少しずつ上がり,あたりの様子が見えてきた。広い駐車場にはレストハウスやお土産屋さんが並んでいる。こんな場所で,ゆうべはお化けが怖かったとは我ながらかっこ悪いこと甚だしい。

草千里の中央にある丘や沼も見えかくれし始めたので,顔を洗ったり身支度したりしながら,何度か草原まで往復して写真を撮った。

駐車場には観光用の馬が闊歩し始める。まったく人や車を恐れない。ボクたちは偶然,奥側に駐車していて難を逃れたが,草原側に停めた車はタイヘンなことになっていた。馬たちが徒党を組んで,愚連隊よろしく車を取り囲んでいるのだ。蹄で車体を蹴り上げる,ワイパーをくわえて曲げてしまう。車内の家族は怯えているものの,もたれかかっている馬もいるので車を動かすこともできない。

周りも手を出せない。一頭でもかなり迫力のある巨体が群れているので,下手に追って興奮させたりしたらどうなるかわからないからだ。駐車場には小さな子どもも歩いている。馬たちは逃げ遅れた車を次々に犠牲にしてゆく。単車は荷物を食いちぎられて,テントや寝袋が散乱した。

草千里浜

やがて厩舎で朝ごはんの支度をする気配が始まると列を作って道路を横断していった。看板に「ここは牧場なので,牛,馬が優先です。」とある。

馬にくらべると牛は断然おとなしい。霧が晴れかけたところで草千里の丘に一番乗りした。

小山の反対側で草を食んでいる二頭の牛に出くわした。ボクも驚いたが彼等も目を丸くして固まっている。長いにらみあいが続く。

完璧なシャッターチャンスだった。伊達のプロスト*にかけていた手がカメラの電源をさぐってぴくりと動いた。その瞬間,二頭同時に横ッ飛びして走り出した。その速いこと速いこと。

あっという間に斜面を駆け下り沼のほとりに点のように見える群れに紛れてわからなくなった。

「ほええ」

キッスデジタルはようやく起動したところだった。

*伊達のプロスト/Canonのカメラを使っているプロだけが使えるプロフェッショナルストラップをしゃれで手に入れたもの。

座っている牛と話すのに飽きたドレミが登ってきた。

「もっと起動の速いデジカメに買い換えてもいい?」
「ダメ」

にべもない。

沼の反対側を回り,烏帽子岳の裾野に登ってみた。まだ,ほとんど観光客は草千里の中には歩いていない。霧の晴れ間から強い朝日が差してくる。

「慌てることなかったね。」

軽装だったので登山はあきらめ,そのまま駐車場側の道を下り沼のほとりに出た。アマチュアカメラマンが600mmを据えている。ファインダーの中では,沼の牛が首だけのアップになっていることだろう。

別にここでなくても撮れる気がする。どうもわざわざ人の集まる場所で長い時間一輪の花や一枚の紅葉をフレーミングしてる人の気持ちが理解できない。

ボクも岸辺に降りて10枚ほどシャッターを切った。遠くから沼を撮影している人の邪魔にならないように素早く草地に戻ろうとして凍りついた。草地と沼は1mほどの段差があってドレミは草地の縁に立ってこちらを見ている。その足元に大きな蛇が垂直に草地を目指して動いていたのだ。

「ドレミ,落ち着いて聞いてくれ。」

ボクは努めて冷静に話しかけたが不自然さは否めない。毒を持っているかはわからないが,1mの崖の上である。足元に蛇が現れてパニックになればかなり危険な気がする。

「こっちを向いたまま,そっと後ろに3歩下がれ。いち,に,さん。はい,そこで向こうを向いて…」

(注)は虫類が苦手な人はクリックしないでください。→

 

ボクは注意深く蛇を監視しながら自分の走る道をさぐった。

「よし,走れ!」

音に驚いた蛇がブッシュに身を隠そうとするのを横目に見ながらボクも猛然と崖を駆け上がりドレミを追った。

「はあはあ。ど,どうしたの?」
「ゆうべ,ヤマタノオロチが夢に出てきたんだよ。」
「?」

そのまま牛のそばを選んで草地を横切り駐車場の下まで逃げた。

阿蘇の外輪山に広がる草の海は独特の色と雰囲気がある。ここを走ると九州にいることを実感できる。一面の牧草地を北に抜けてゆく。

黒川温泉が次の目的地だ。大分と熊本の県境には混浴の露天風呂が多い。

ドレミ盗撮事件

黒川温泉は,1200円で3軒の宿の露天風呂を楽しめる「湯めぐり」で若いカップルに人気になった。ドレミがガイドブックでリストアップした宿の中には,とてもボクたちでは泊まれない豪華旅館の名前もある。真夏とはいえお盆休みの土曜日なので混雑を覚悟していたがメインの駐車場がちょうど満車になる程度だった。

湯めぐりの札と地図をもらって風情のある温泉町の客となる。町のお土産屋さんや食べ物屋さんも湯めぐりの客で繁盛しているのか趣向をこらした店が多い。古い木造の建物を改築した洒落た割烹のメニューに足が止まった。だご汁定食1000円とある。

うどん粉をまるめただんごのみそ汁という超素朴なもので甲州のほうとうに似ている。割烹とは言えいささか1000円は高いと思ったがちょうど湯道具に小銭の他に千円札を二枚持って出ていた。

店内はすべてのテーブルが個室に別れていて窓からは小川や坂道が見渡せる。優雅な雰囲気で冷えた焼酎でも頂きたいところだったが,

「お飲み物は?」
「すみません。二千円ちょっきりしか持ってないんです。」

…ともあれだご汁は美味しかった。

これで唐津の貝汁,宮崎の冷や汁,そして肥後のだご汁と味わったことになる。

「これを九州三汁と名付けるぞ。」
「はいはい。」

最初の露天風呂は食事した部屋の窓からもよく見えていた「新明館」だ。岩戸風呂といって川沿いの岩場が湯船になっている。受付でスタンプをもらって岩穴をくぐると,他に入浴客はなくせせらぎの音が心地よい。

メガネをかけた学生バックパッカー風の男が洞窟付近でそわそわしているのに気付いた。二人きりで露天風呂にいるとあとから来た入浴客が入りづらくなって迷惑をかけることがときどきある。

それで様子を窺っているのかと思い「どうぞ」と声をかけようとしたらいきなりフラッシュが焚かれた。びっくりしたドレミがぽちゃんと湯に沈む。男の方を見るとさっと横の脱衣所に入った。盗撮にストロボとは大胆すぎる。

「洞窟でも撮ってたのか?…」

脱衣所は湯船のすぐ脇にある。さすがに気味が悪いので見ていると,驚いたことに脱衣所の窓の障子紙に穴が開いてそこから指が見えてきた。

数秒後穴の上に赤外線の光が赤く映ったかと思うと思いっきり室内でフラッシュが光り男の影が障子いっぱいに浮かんだ。次の瞬間には猛然と洞窟の道を男が逃げていった。

ボクたちはただあっけにとられていた。

「ばかだなぁ」

オートに設定したコンパクトデジカメのレンズだけを外に向けたので暗い室内を測光してまたストロボがフル稼働したのだろう。

やはりお盆休みにのんびり温泉の風情を楽しむというのは少しムリがある。

小国町から国道212号線を北に向かった。このまま行くと高速の大分道には日田でぶつかる。ドレミがiモードで日田のビジネスホテルを予約した。


夕方日田の町に入った。洗濯を終えて町に出るがお盆休みの商店街は見事にシャッター街だった。休業日の張り紙が寂しさを誘う。開いているのはチェーン店のラーメン屋とドーナツ屋,それに大分県に入ってやたらに見かける焼きそば専門店がある。未確認だが大分名物のひとつらしい。

「ここにしようや」

通りすぎたドーナツ屋に未練たらたらのドレミを促して焼きそば屋に入った。従業員はお盆休みらしく,厨房にいる店主と家族で営業しているようだ。高校生らしいおさげの女の子が注文を取りに来た。

「お盆で焼きそばと餃子とライスしかできないんですけど…」
「じぁあ焼きそばと餃子とライスください。」

選択の余地がない。

待つほどに運ばれてきた焼きそばは,一見普通のソース焼きそばだった。箸を取って一口食べるとやっぱり普通のソース焼きそばだった。しかもスーパーで買える麺で作ったものと変わらない。一般の主婦でも10分あれば作れる「あれ」なのでわざわざお店で食べる必要が感じられない。いったいどんな層に支持されてチェーン展開しているのだろう。

ほろ酔いで焼きそば屋さんを出ると空がピンク色に染まっていた。ひと気のない商店街をボクたちもピンク色に染まりながら歩いて駅前のベンチに腰掛けた。見知らぬ町の旅の空を夕日が七色に変えていく。

「時間よ止まれ」

と,ロマンチックの止まらないボクが握った手をドレミが強く握り返した。

「ねえ」

と甘い声でささやく。

「あしたの朝食はドーナツにしてもいい?」
「は?」

この夕日を眺めながらドーナツのことを考えていたのか。どだいロマンチックは男の専売特許なのだとボクは確信した。いつの間にか横に猫が座って茜色の目でやはり空を見ていた。

「お前はミスドより夕焼けだよな。」

と,話しかけると,にゃあと鳴いて逃げるそぶりもない。きっとロマンを解するオス猫だろう。ドーナツ屋に朝食を買いに行ったドレミを待つ間にあたりはすっかり色を失い,いつの間にか猫も姿を消していた。

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