夕方そのピザ屋に着いたのは約束の20分前だった.
昼過ぎにウォール街にあるトリニティー教会でコンサートを聴いたあと,6人の子どもたちは思い思いの目的地に向かって街に散って行った.
手を振る中学生を見送ってから,ボクとドレミはあてもなく地下鉄に乗り,ブルックリンの知らない街を散歩したり,アスタープレイスのスタバでお茶したりして時間を潰した.
それからワシントンスクエアを横切って,集合場所に指定したピザ屋を探し当てた.
もちろん,子どもたちも初めての場所である.そればかりか,ここは従兄弟のジェレミーのお勧めで急遽集合場所になったため,前日に地番と店名を教えて地図で確かめさせただけだ.
子どもたちはサブウェイマップでアクセスを考え,迷っては地番を数え,手当たり次第に人に尋ねながらここに向かっているに違いない.
安全を考えたら引率すればいい,子どもたちがリクエストした場所を効率よく回って来ることができるだろう,でもボクたちはこれを選んだ.
「迷って来い.聞きまくれ.」
と指示してある.子どもたちがこの数時間で経験することは,お仕着せの留学の二週間に匹敵すると思う.
予約の確認をしてから,目印になるようボクは交差点に立ち,ドレミは店先のベンチに座った.
ドレミの表情が穏やかだ.街に散っている子たちは何年も英会話を教えた愛弟子たちだ,通りや地番の読み方,人に道を尋ねるときの様々な表現,いざというときのタクシーや公衆電話の使い方,みんな教えてきた.
子どもたちをそして自分を信じている.
携帯のない待ち合わせはいいものだなとボクは交差点に立って思う.
今頃どうしているだろうと想像する.不安と信頼が交錯する.さっき別れたばかりの子どもたちが無性に愛しくなる.かつて待ち合わせとはこういうものだった.
今は会う前から
「今,どこ?」
「ちょっと遅れそう.」
などとメールを交わせる.
携帯がなければ,できることはふたつだけ.
早めに着くこと,そして想うことだけだ.
待ち合わせの相手と会って,「よう!」と声を交わすとき,キスするとき,握手するとき,丁寧にお辞儀するとき,ハグするとき,互いに積もらせた想いは融け合った.
携帯は確かに便利な道具だが,それによって失われたものは大きい.
約束時間の5分前,通りの向こうからM奈とY美が姿を現した.手を振りながら駆けてくる.前回のツアーにも参加したボクたち自慢の高校生たちだ.
そしてジャストインタイム,S香がサングラスをして飄々と歩いてくる.
「shuう~,あっちにね,同じ名前の看板があって,S香の古いガイドブックはそっちが書いてあるの.でも誰もいなかったよ.」
移転したのか改装中の仮店舗でもあったのだろうか,ボクは高校生二人をそちらに待たせた.
ほどなくレオとナナが高校生に連れられて来た.
「shu先生,オレ,Excuse meの発音だけはやたら上手くなったよ.」
レオが笑顔で言う.
よほど迷ったのだろう.その上,お目当てのショップで買い物してるときに,男にナンパされたそうだ.
「オレ,そういう趣味ないし」
「わからんぞ」
最年少ののぞみだけがまだ来ないが,彼女は最も研究熱心で,今日も欲張って5つも店を回っている.
「のぞみの地図は新しかったから大丈夫」
ナナが確認したそうだ.みんなを店に入れてボクだけが外で待つことにした.
駅とは反対の方向から唐突にジェレミーが現れた.
「ど,どうしたの,ジェレミー.」
荒い息をしながら彼は笑った.自分の推薦した店がクレジットカード不可であることを思い出し,ボクたちが現金を持っているか心配になって駆けつけたと言う.それを確かめると,あっと言う間に手を振って夕闇の中に駆けて行った.一緒に夕食に招待したかったが,奥さんのメロディが身重で食事の世話に帰るのだ.
愛妻家である.
奥さんとは学生時代からのつき合いで,宗派の違いから一度破局したことがある.日本に半年ほど留学したときは,ちょうど傷心の頃でボクたちは愛についてずいぶんと相談を受けた.信州の宿場町に連れて行ったとき,石畳の道を歩きながら急に
「やっぱりもう一度プロポーズする」
と決意した.
気の優しい従兄弟だ.当時は吉田拓郎を歌えるほど日本語をマスターしていたが今はほとんど話せない,MIT出の秀才でもある.
思い出にひたっていると,灯火に照らされ始めた歩道の人波の中に,ひときわ小さなのぞみが心細そうに歩く姿が見えた.大きく手を振るボクに気づくと一目散に走り出したが,辿り着くまで涙腺がもたなかった.
腕の中で
「shu先生,ごめんなさい,ごめんなさい.」
と言いながら泣き崩れた.
上出来だよ,のぞみ.
3年前にM奈たちが初めてだったときは,待ち合わせのたびに誰かが来なくて,ボクは一時間以上こうしてひとりで待たされたもんだ.
店に入ると温かいテーブルをみんなの笑顔が囲んでいて,のぞみはドレミにしがみついてまた泣き崩れた.
ボクは運ばれてきた黒ビールのジョッキーを一気に傾けた.