1/吹雪のミネアポリス

Jan, 2008

目の中に入れても痛くないほどかわいがっている愛犬を置いて出かけたりするからろくなことはない。首都高に入った途端,環状線の事故渋滞に巻きこまれた。


ボクと妻のドレミは春休みにアメリカのオクラホマに行くため成田空港に向かっていた。アメリカ人でドレミの従妹にあたるウイノーナが,オクラホマ州のタルサという町に住んでいる。彼女を訪ねていく旅だ。彼女はもちろんその夫ネイサンともボクたちはとても仲がよい。


首都高の外回りは20km以上の渋滞になっている。平日の午前中は車は多いけどドライバーの質もそこそこいいので,こんな深刻な事故渋滞はきわめて稀だ。

「よりによってこんな日に。」

千鳥ヶ淵の桜でも愛でていこうと思っていたのを諦めて内回りからレインボーブリッジを渡って湾岸線に入った。事故渋滞の影響がここまで来ていて湾岸線も遅々として進まない。時間には十分余裕を持っていたが何だかいやな予感がしないでもない。


車を預けるのはいつものパーキングだ。渋滞のせいで余分に取ってあった時間はすっかり使い果たしてしまった。



「1時35分のノースウエストなんですけど,ギリギリになっちゃったんで早めに送ってください。」
「すぐ送迎バスが来ますよ。あれ?その便の出発時刻,10分に変更になってますよ。」
「えー!」



「早くなるなんてあるのかしら」
「ノースは何でもありっすから。大丈夫,どうせ遅れてますよ。」

どうやら初めて使うノースウエストの成田での評判はあまりよくないようだ。


北ウイングは小雨の中だった。

前日の夜まで仕事が忙しかったので,ここまできてようやくボクたちも旅モードになってきた。久しぶりの海外旅行だが二人だけなので準備は気楽,気も軽い。だが珍しい首都高の渋滞は,これから始まる不運のほんの序の口だったとはこのとき知るよしもない二人であった。


チェックインを終えたボクたちは,二人で一皿の冷やしたぬきうどんを分けて食べてから手荷物検査に向かった。ドレミのハンドクリームが手荷物で引っかかった以外,あっけなく検査を通過した。今回は預け入れ荷物も缶や瓶詰めのものは一切持たず,手荷物も注意して作ってきたのだ。



搭乗手続きを待つ間に交代でトイレに行ってジーンズをジャージに履き替える。現地到着前に機内のトイレでまた着替える。これも長いエコノミー歴でつけた知恵だ。それでもシートに掛けるととても狭く感じるのには閉口した。ノースウエストのボーイング747-400型は狭い上に徹底的に何もない。



モニタはスクリーンを遠望するのみだし,ヘッドホンからは数チャンネルの音楽が流れているだけだ。

これで10時間半は結構手ごわい。


ドレミはいつものようにひたすら文庫本を読んでいる。気の短いボクは搭乗前の書店でいつものラインナップを揃えた。文藝春秋,ゴルゴ13,そしてアサヒカメラである。特にアサヒカメラなどは中古レンズの値段などを隅々まで読んでいると際限なく時間がつぶれてくれる。

三人がけの通路側には一人旅らしい若いアメリカ人が座っていたが,体を丸めたまま本を読み続けるボクたちに時々不気味そうな視線を送っている。しゃがむのが苦手な彼らから見ればボクたちの姿勢は曲芸に近い。窓の外はずっと眩しい極北の白夜だった。


長い時間を耐え,やがて飛行機が高度を下げてぶ厚い雲に沈んだ。ところがいつまでたってもいっこうに雲の下には出ない。地表近くまで垂れ込めた雲の下,乗り継ぎするミネアポリス・セントポール国際空港は吹雪だった。



現地時間の昼前,入国審査を受けたボクたちは荷物を一度受け取り,すぐにまたトランジットのカウンターでそれをチェックインした。ゲートを出て電光掲示板にタルサ行きの出発ゲートを確認しようとして二人同時に声をあげた。

「え?」


cancelled

…乗り継ぎ便が欠航になるのは初めての経験だった。他の便は飛んでいるので吹雪のせいではなさそうだが欠航の原因を考えている場合ではない。とりあえず近くにあるノースウエストのカウンターに行き,どうしたらいいのか聞くと

「next flight(次の便です)」

と言いながら手続きできるカウンターを教えてくれる。次の便って…

「21時過ぎじゃん,ここで9時間待ちかよぉ。」

さすがに長いフライトのあとでうんざりしていた。

「とにかく教えられたカウンターに行ってみましょ。」

発券カウンターのいかにも仕事の出来そうな女性はボクたちのチケットを見るなり状況を把握し,打開策を考えてくれた。端末を操作して数枚のチケットを発券する。


「まず,デトロイトに飛んでください。」

「デ,デトロイトぉ!?」

「ええ,そこで夕方6時のタルサ行きに接続できます。」

タルサ着が21時だという。


切り替えなければならない,旅のハプニングを楽しむ方向に。その場のボクにはデトロイトとタルサとここミネアポリスについて,おぼろげな地図上の位置関係しか分からない。もちろんそれぞれの所要時間など想像もつかない。おとなしくノースウエストのお姉さんを信じてその指示に従う他はない。とにかくここを21時に発つよりはマシだろう。

一方ドレミは迎えにくるウイノーナになんとかこの事態を伝えようと,クレジットカードや小銭を使って公衆電話と格闘していた。それを待つボクの足元には,若いブロンドの女が電話の下にあるコンセントにノート型PCのアダプターをつないで,何やら一心にエクセルを操作している。カエルのようにぺたりと座り込んでいるものだから,ジーンズからはお尻が丸出しになっている。ドレミの電話機の液晶画面がまた「接続できませんでした」と表示してきたので,ボクは尻出し女に聞いてみることにした。突然話しかけられて彼女は大げさに驚いたが,すぐに理解して自分の携帯でかけてみてくれた。人は見かけによらない。空港でお尻を出していてもいい人はいるものだ。しかし結果は変わらなかった。


ボクたちは彼女に丁寧にお礼を言ってから,あきらめてイートインコーナーに向かった。何のことはない。後でわかったことだがドレミがウイノーナの携帯電話番号を間違えてメモしていたのだ。ふつうなら一度かけて確かめるべきだが,国際電話で携帯にかける手間と料金を考えて躊躇してしまったのだ。



手近な店でビーフのサンドイッチと飲み物を一つずつ買って二人で分けた。味付けは違うが有名店の牛丼とそっくりの肉がぎっしり入っていて香りも似ている。



柱にガラス張りの暖炉が据えられていて薪が燃えている。飾りかと思ったら吹き出し口があって実用品らしい。



窓の外は吹雪だ。吹雪と言っても黒く重いみぞれが強い風とともに間断なく降り注いでいるのだ。こんな気象現象は日本ではありえないのでぴったりの日本語がない。


再び搭乗口に入るために靴まで脱ぐ検査を受ける。二人してドラッグの嫌疑でもかかったらしく,衣服や靴,カメラにまでこすりつけた濾紙のようなものを機械にかけられた。一体,あと何度これを通過すればタルサに辿り着くのだろう。

デトロイト行きのシートは一番後ろだった。ボクたちのようなイレギュラーの客のためにキープされているような座席らしい。席に着いて一時間以上たってようやく飛行機が動き出したが滑走路の手前でまた止まった。


あちこちに積み込みを待つ荷物が雪の中に放置されている。ボクたちの荷物は無事だろうか。



アームの先端に運転席のある見たこともない重機がさかんに機体の回りを走りながら赤や青の液体を翼に吹き付けている。はりついた雪を吹き飛ばしているのだが,作業を終えて左翼に移動する間にもう右翼は氷まみれになってしまう。


いつ飛ぶのだろう。ミネアポリスとデトロイトでは時差があるらしく,チケットを見ても遅れがどれくらいなのか見当がつかない。機内アナウンスが何度か入るがもはや疲れ果てた神経が英語に反応しない。

ゴルゴ13が成田~ミネアポリス間で果たした3つのミッションを始めからもう一度すべて遂行した頃,思い出したようにエンジン音が高まった。ジェット噴射が滑走路のシャーベットをメリメリと引き剥がして吹き飛ばす。真っ暗な霧とみぞれの中を機体が急上昇して厚い雲を突き破ると,また眩しい成層圏の世界に戻った。ジェット機がタルサとは方向違いの東に進路を取ったために急速に日が傾いてゆく。

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