ネイサンとウイノーナの家にはベッドルームがふたつあるが,ひとつはパソコンや楽器類などが置いてあってふだんは書斎として使われているようだ。二人はそこにマットを敷いて,ベッドルームをボクたちに明け渡すと言う。こういう場合,最近ボクらは言われた通りにすることにしている。ベッドルームはたいてい寝る以外の機能を持っていないので,数日間使えなくてもあまり差し支えない。下手に遠慮して居間だの書斎だのを占拠してしまうと,余計相手を困らせることがあるからだ。
一夜が明けて食卓に朝ごはんが並んだ。こりゃあうまい。
とくにこの手作りグラノーラが美味しい。焼いたオーツ麦を中心にしたシリアルだ。
チーズもバターも美味しい。
ネイサンが出勤時間ギリギリに起きてきた。
「ンー」
と照れくさそうに一同を見回すときは日本語を考えているときだ。
「キョウハ ドコヲ シマシタカ?」
「ん!?」
ネイサンが日本語をしくじるとウイノーナが眉をひそめて「ん!?」とやる。固まった雰囲気の中,ゆっくりとネイサンが首を左右にめぐらせて,
「Oh,ドコ,ヘ,イキマースカ」
「まあ,ネイサン上手。 We'll go shoping.(買い物よ) 」
実際ネイサンの日本語はウイノーナをしのぐ勢いだ。どちらかと言えば,完璧主義のウイノーナはミスを恐れてほとんど日本語を口にしない。一方,ネイサンはとにかく好奇心と向学心の赴くままに発音するので,毎回ボクたちと会っている間にめざましい進歩を遂げるのだ。
「ジャア,driveハ,イツイキマスカ,アシタ?」
「何言ってんの。明日は和食パーティーじゃない。そのための買い物に行ってくれるんだから。」
「あー!そうだった。忘れてた。」
16人も呼んでおいて忘れるところがネイサンだ。
「ネイサンネイサンネイサン!」
こんなときウイノーナやめぐみ伯母は肩をすくめてよくこう言う。三連呼が形容詞となっている。当の本人は照れくさそうに笑っている。まったくこんな愛すべき男はなかなかいない。
ネイサンが出勤してウイノーナが買い物の前に郊外へ連れて行ってくれると言う。携帯で友だちにポイントを聞いていたが結局説明するのが面倒になったらしく,その友だちが案内してくれることのなったらしい。待ち合わせは
「on the freeway(高速道路上)」
マツダ323を走らせながらウイノーナが言う。
「…あ,そ。」
ボクも運転の達者な友だちとならそんな待ち合わせをしないでもない。が,ウイノーナの運転はお世辞にもうまいとは言えない。それでもニューヨークのような大都会でない限り,この国では車を運転しなければ生活できない。
母くらいの年令の女性が戦車みたいなピックアップのハンドルにしがみついて交差点でもたもたしている。東京ならクラクションの嵐だろうが,その点こちらのドライバーは寛容だ。ウイノーナも(たぶん州法で認められているのだろう)携帯で盛んにやり取りしながらふらふらと走る。まあ,日本と違って小道でも歩道があるので事故の心配はほとんどないが…。
案の定後ろから来るはずの友だち車はいつの間にかボクらの車を追い越していて,目的地のインターを過ぎてからようやく合流した。
←なぜか前方に友だちのアコードワゴン
彼らがボクたちに見せようとしたのはオイルウェルという石油掘りの機械だ。空き地に放置されている。
エネルギー革命の起きた20世紀前半,タルサ近くのグレンプールなどで地下の石油の巨大な貯蔵が発見された。
多くの白人がタルサに殺到してインディアンから土地を収奪し巨万のオイルマネーを得た。前日,見物したダウンタウンに立ち並ぶアール・デコ建築の大邸宅は1920年代のオイルラッシュ時に建てられたものだ。
←オイルウエルの大きさはこのような重機サイズから乗用車くらいのものまであり現在も売られている。
こちら案内してくれた友だち。オケのトランペット奏者だそうだ。
元気な娘さん
壊れた機械を一心に撮影している外国人のお付き合いに飽きてホトケノザを摘み始めた。
花摘みと呼ぶには少々乱暴で,束ねてぶちぶちとちぎってはボクらのいるところに走ってきて地面に投げ捨てている。風情のかけらもないが,それにでれでれと目を細めるお父さんの親バカぶりもタローを飼ってから理解できなくもない。
「次にどこに行きたい?別なオイルウェルもあるけど。」
こんなときはどこでもいいと言う返事がいちばん相手を困らせるものだ。
「オイルウェルはもう結構,ボクは史跡が好みです。博物館ではなく歴史的な場所や建物です。」
余計困らせたようだった。
「histrical place(史跡),histrical place…」
トランペット奏者は眉根を寄せて歌うようにつぶやきながら天を仰ぐ。
「そうだ,確か…」
ウイノーナと何やら話しながら,二人して忙しく携帯電話で問い合わせている。ありがたいことだがあまり具体的な期待はしていない。
思った通り,高速をインターふたつほど行ったところに訪ねた「ヒストリカルプレイス」の看板は野原の真ん中にポツリとあった。この原っぱにどんな歴史があるのだろう。トランペッターが近くのパーキングで昼寝している人に聞きに行ったが,そもそも聞いてる本人がよく知らないのだから分かるはずもない。どうやらあきらめて移動するようだ。
いいなあ,こんな時間。空を見上げた。天気予報は午後から雨だがまだその気配はない。空をさえぎるものはせいぜい木立くらいしかない。
二台の車は小さな町に入った。町に入っても空の広さは変わらない。
トランペッターのアコードが町の中心(らしい)にある資料館に停まった。娘さんがトイレを借りに行く。ボクはカメラバッグを担いで車を飛び出した。後のことはドレミがなんとかするだろう。何しろこれぞイメージしていた田舎町だ。
古い街並み,消火栓,デッキにウッドチェア
50年代のプリマス。
立ち止まってくるくる回りながらシャッターを押してもみんな被写体になる。
「この外国人はいったい何を撮っているのだろう。」
といぶかるのも,ときどき通るピックアップのドライバーだけ。町を走り回ってもとうとう通行人とは一人も出会わなかった。
大きな牧場の丘でトランペッター親子と別れた。
ありがとう。二度と会うことはないだろうけど,お礼に娘さんの花摘みの写真を送ろうと思う。
さあいよいよ食材調達に出陣だ。
予報通り雨がばらついてきて明日いっぱい降るらしい。まずはスーパーマーケットをチェックする。小ぶりなキャベツは固くてしまってみずみずしい。アスパラも使えそうだ。キノコ類は豊富だが日本産のように香り高いとは限らない。肉や魚介類も揃っているが薄切りの豚肉はやはりない。魚も刺身にできるほどの鮮度はない。内陸なのでそれは想定内だ。
続いて郊外にある韓国食材の店に行った。日本の食材や菓子類も結構ある。野菜売り場でゴボウを見つけた。中国から空輸されたのだろう,色も香りもいい。これは主力食材になりそうだ。他に海苔,豆腐,米酢,冷凍の蓮根などを購入したが豆腐と蓮根は使いものにならなかった。
次にタイ食材の店。魚があるかもしれないと言われて来たが,店内は腐臭に近い生ものの匂いが漂っていてとてもボクの手に負える食材はない。短くて細いネギだけを買った。
ウイノーナはどちらの店でも日本の食品を懐かしがり,納豆だのミカンだのお菓子だのを買い込んでいる。
なーんだ。そんなことなら言ってくれれば抱えるほど持ってきたのに…。でもボクたちもそうだが,こういうものは実際に目にしないとなかなか浮かんではこないものだ。
「shu,どの納豆がいいかしら…」
などとはにかみながら聞く。そのしぐさや表情がきゅんとくるほどかわいい。ボクの知る限りこれは日本女性独特のものだ。きっとネイサンもこのしぐさにきゅんときたクチだろう。
韓国食材店にもあったがここにも顆粒の「ほんだし」がたくさん積んである。醤油はたまり醤油と日本語で書いてある怪しげな甘い醤油が主流でスーパーにも売っている。アモイに住む友人の許クンも「日本の香りのいい醤油は中国では手に入らない」のでお土産に欲しいと言ってい。,そう言えば許クンも料理が得意で,ウチに来てよく中華料理を作ってくれた。が,職場だった千住の市場から食材を持ち込んで東京で中華を作るのと,オクラホマの田舎で和食を作るのとではだいぶハンデがある。
小雨模様の中を再びスーパーに行き,小麦粉とキャベツ,アスパラ,キノコなど使えそうな野菜を片っ端から買った。どれが実際使えるかはわからない。肉と魚はコスコ(コストコ)系のスーパーの方が安くて質もいいとウイノーナが言うので翌当日の午前中に買うことにする。
郵便局に寄ってハガキを出し帰宅すると日が暮れた。食材の買い物だけで半日が丸々つぶれてしまった。
前日ボクらが遠慮がちに飲んでいたのを不憫に思ったのか,この夜二人はボクたちをワインレストランに案内してくれた。好きなだけ飲んでいいよ…というつもりなのだろう。
料理の味も雰囲気も良かったが,ウエイトレスお勧めのステーキは如何せん固かった。
「きのうはお母さん,きょうはshuのおごりね。」
とドレミがタイミング良く言って,ウエイトレスに会計を頼む。もとより二人が宿泊のお礼など受け取るはずもないから,夕飯は全部ボクらが持つつもりである。会計はウエイトレスが持ってくる黒い折りたたみ式の紙ばさみのポケットにクレジットカードを差し込んで渡せばよい。しばらくするとウエイトレスが勘定書を挟んでカードを返しにくる。勘定書はチップと合計欄が空白になっていて,付属のボールペンで客が記入する仕組みだ。チップの相場は15~20%なので慣れないボクたちは料金を10で割って2倍しサービスが良かっと思えば端数を切り上げ,不満ならば切り捨てて丸めた額を記入している。しかしチップの習慣のないボクたち日本人にとっては,ウエイトレスのいささかテンションの高いよいしょや愛想笑いはみな等しく極上のサービスに映るので,めったに切り捨てることはない。
ボクは彼女の選んだゴムのようなステーキを噛みすぎて,あごがきしきしと痛んでいるのが不満だったが,果たしてこの場合ウエイトレスの責任を問えるのかわからないのでやっぱり切り上げた金額を記入してサインした。あとはそれをテーブルに置いておけば会計は終わりだ。
カードが今ほど普及していなかった頃は「いくらいくらお釣りをください」と言うのが煩わしいので,どこの国に行ってもきっちり20%を払えるよう,その国の小銭をしこたま準備していたものだ。
タルサのワインレストラン。
もちろん,お酒の飲めない二人も初めての店。案外,酒飲みの客を連れてふだん行けない店に探検だったのかもしれない。
基本ボクのお酒は全く口ほどにもない。帰宅するとボクは買い物の疲れがどっと出てばったりと眠りこんだが,ドレミはパーティのために日本から持ってきた切り干し大根を煮て,ネイサンの例の「麦秋」にも遅くまで付き合っていた。