5/アンソニーの胃袋

Jan, 2008

明けて和食パーティー当日の朝は霧雨だった。タルサの街を春霞が覆う。白い世界にレッドバドのピンクの花が樹形を浮かびあがらせる。家々の芝はしっとりと濡れてホトケノザの紫がぼんやりと霞む。が,見とれている場合ではない。朝食を終えるとさっそく肉などを買いに行って,仕込みを始めた。


無条件に使えるのはゴボウである。笹掻きにしてニンジンと,きんぴらにする。


鮮魚がないのでメインは揚げ物が中心になる。残りのゴボウは油を使わず,できれば醤油味が重なるのも避けたい。ふと,母が正月によく作る酢牛蒡が頭に浮かんだ。箸休めにちょうどいい。記憶を頼りに作り方を想像する。ゴマはどうやって擦ろうか。


ウイノーナがなんとこんなものを出してきた。



便利なので以前にお母さんからもらったという。白ゴマをあたって,砂糖と米酢,煮きりみりんを合わせたところに,包丁で叩いて茹でたゴボウを入れてみた。ほぼ母のと同じ食感と味が再現できた。


ドレミはキャベツを刻み始める。ボクは料理上手で通っているが,実は実働の7割はドレミがしている。ウイノーナが持っていた和包丁はほとんどノコギリと言って差し支えない。仮に砥石があったとしてもとても研ぎ出せる状態ではない。これで千切りキャベツはかなりキツイ。


奥に見える丸い大根もまったく異質な食べ物だった。
たぶん調理法が違うのだろう。


揚げ物の付け合わせとお好み焼きのベースにしようと思っていたが,二個半切ったところで味見すると苦い。日本のキャベツのような甘味は全くない,風味も水気もなくただ苦い。こっちの人はどういう風に料理するのだろう。火を通すとますます苦味が増してとても食べられない。結局ほとんど使わずに廃棄処分となった。ああ,アメリカンキャベツよ。すまん無知な外国人が買ったためにそのまま生ゴミになってしまうとは…。

ここでびっくり仰天オクラホマ州の生ゴミ処理法!家庭用シンクの排水部分にフードプロセッサーが装備されているのだ。スイッチを押すと,ガガガーっと生ゴミが粉砕されて下水に流される。「嘘だろ…」思わずつぶやく。下水処理場でなんらかのステップがあるのだろうか。揚げ油もお湯といっしょに流される。もし今度また外国で和食を料理することがあったとしたら,必ず揚げ油凝固剤と砥石を持ってこようと心に誓うshuであった。


てんぷらのオイルや小麦粉について,ニューヨークの伯母に電話で質問。



隠元。もはや予めボクが生のままかじってみる。…こりこり,ん,これはいけるぞ。しまった。こっちを胡麻和えにすればよかった。キャベツの轍を踏まぬようここからはアスパラもホウレン草も調理前にみんなかじってテイスティングする。



ドレミに鍋でご飯を炊く練習をさせてきたのだが,ウイノーナは炊飯器も持っていた。もっともこちらはライスクッカーと呼ばれ一般家庭に普及しているという。実際アンソニー宅にもあった。象や虎のマークの日本製である。



茹で上がった隠元が美味しいのでわさびマヨネーズで和えてみた。醤油味が苦手な人がいた場合を想定してのことだ。

しだいに和食御膳と言うより,お惣菜屋さんメニューになりつつある。



こちらで調達したのりの風味が悪いので一度焙る。



どどーん!!

トレイに並んだ豚肉。ポンド表示なので量は不明。アメリカンサイズのシンクとの対比で大きさがおわかりだろうか。三列になっている一枚一枚がフルサイズのトンカツ用の大きさである。


もともとスーパーの食肉コーナーでパッキングされていたのはこの2/3程度の量だった。如何せんカットが分厚すぎる(2cmほどもある)ので,もう半分にスライスしてもらえないかとウイノーナを通して交渉すると売り場の女性が快く引き受けてくれた。でも「もし可能なら…」スライスする前のカタマリの方を買ってくれると手間が省けると言う。量は多くなるがかなり割安で品質も同じらしい。見回すとトレイにスライスされたものはわずかで,肉のほとんどはカタマリで売っているのだ。あまり思い出したくないのだがトンカツサイズの太さで60cmほどもある丸太のようなカタマリが積まれていて,ボクはその一つを選んで彼女に渡した。数分後に運ばれてきたのが写真のトレイだった。

この食材状況で和食の名誉を守るためには,揚げ物,炒め物の下処理と味のキレで勝負するしかないと考えていたシェフshuとしては肉の品質にはこだわった。他にこの半量ほどの鳥モモ,冷凍の海老と帆立を買った。レジに行くと,ウイノーナが

「肉や海老の代金は私に払わせて。」

と譲らない。それではお土産にならんと押し問答したが確かに彼女の気持ちもわかるので払ってもらうことにした。


ドレミとウイノーナがライスクッカーで炊いたもち米半分のご飯を丸めておはぎを作る。



ウイノーナのリクエストだが,小豆餡の香りにギブアップの外国人は非常に多い。工芸品のように美しく,ヘルシーで風味もよい和菓子が世界的にブレイクしない理由はきっと小豆餡だろう。



ボクはこれをしょうが焼きやお好み焼き用の薄切りにしていく。使うはノコギリ和包丁のみ。


もくもくと削いでは包丁にまいた油を洗い流す作業を繰り返す。ほとんど苦行に近い。途中ネイサンがランチにピザを買ってきてくれたが,ボクはもう食欲が全くなくなっていて一切れも食べられなかった。


おはぎ完成。手間の関係で残念ながらあんこは東京から持っていった真空パックものだったが,もち米の炊き具合がちょうど良く美味しく仕上がった。日本ならどこでも買えるので,こんな機会でもなければ自分ではなかなか作らない。ただし予想通りゲストたちはほとんど手を出さなかった。



車にごちそうを満載して,いざアンソニー宅へ!!



「ぐっれいと!!」のアンソニー宅に到着。

三人でエイエイオー!の図です。


食いしん坊アンソニーの家は大邸宅だった。御影石で張られた豪華な厨房にしばしボクらは茫然と立ち尽くした。

ここキッチンのショールームか何かですか?

どこから手をつけるべきか。大きな戸棚をいくつか開けてみた。珍しい器具や鍋が整然と並んでいる。見とれている場合ではない。ボクが臆したらチーム全体の士気にかかわる。

ボクは奮然とフライパンを手にとって

「卵!」

と鋭く言った。運びこんだ荷物の中からドレミが卵のパックを持ってきた。

「6個!」

ボールに卵を割りほぐし手はじめに出汁巻き玉子を作る。パンを振って二層目を流し入れ,海苔を巻き込む。

「ほっ!」

返す。つられるようにドレミの体が動き出した。次々と食材を展開し切りものに入る。ボクが使ったパンや鍋は即座に洗われてスタンバイされる。

「塩!」
「みりん!」

間髪入れず手渡される。

「寿司飯お願い!」
「ほいきた!」

調子が出てきた。寿司酢はワインビネガーと米酢を合わせて砂糖で調整した。

玄関に物音がした。

「おはよー(日本語)!!!!!!」

あまりの大声にドレミが仰天し,洗っていた鍋を取り落としてしゃがみこんだ。キッチンの入り口にプロレスラーのような男がいたずら坊主よろしく両手を広げて笑っている。アンソニーの登場である。完全に空気を読みそこなって一同の目が点になっているのをものともしない。

「ようこそ!今夜は楽しみにしてるよー!!shuー!!ドレミ?!ボク,アンソニー!!よろしくよろしくー!!」


声,でかすぎなんですけど。



料理は佳境に入った。

トンカツ(ハーフサイズ)32枚に衣をつける。ソースにはお好み焼き用に持ってきたおたふくソースを使った。



酢飯に白ゴマを混ぜてお稲荷さんを作る。



おにぎりの具にするツナの缶詰を開ける。見たこともない缶きり。



ホウレン草は抜群のクオリティ。日本から運んだ鰹節たっぷりのおひたし完成。



下ごしらえを終え二人の表情に余裕が出てきた。



空気銃で遊ぶアンソニー,ほとんど子どもだ。



おにぎりを三角に握る方法を教えている。



のみこみの早いウイノーナ。



雨が上がって美しい夕方になった。



草に残る滴がいっせいにきらきらと光る。



お客さんが徐々に集まり始めた。



豚肉が余りそうなので揚げて甘酢あんかけにしてみた。片栗粉の代わりにコーンスターチを使用。



ティラピアをさっと煮付ける。



準備完了。

てんぷらなどメインの下準備もできた。



ドレミが料理の解説をしている。

「スシ(酢飯)を揚げたトーフ(油揚げ)で包んであります。」

なーんて説明を真剣に聞いている。「キンピラゴボウ」には日本人から拍手が起こる。



主賓の日本人ダンサーたち。

細い,きれい,礼儀正しい。日本の若者を見直した。



そしてアンソニー。全種類を皿に盛っている。


実はここから画像がない。厨房の忙しさにカメラどころではなかった。まずメインの海老天を揚げる。揚がったそばからドレミが運んでいく。ふと思いつき,この家にあった岩塩をスプーンとコップの底でパウダー状にして添えてみた。続いてアスパラ天を揚げる。横で皿を持ったゲストがおにぎりや切干のテーブルを回る。

「あんまり食べないでくれ。それはアパタイズ(前菜)だ。メインはこれからなんだ!」

ピーマン,キノコ天は割愛してトンカツ32個お待ち!!切り札のおたふくソースをたっぷりかけまわした皿を持ってエプロン姿のドレミがサーブして回る。

「生姜焼きあがりまーす!」

根性でスライスした豚肉は,ニンニク,生姜,鷹の爪をローストした油で焼き上げ,酒とみりんを含ませてから醤油で一気に香りをたてた。こんなシンプルな生姜焼きを作るのは久しぶりだ。が,息つく間もなく,皿が行ったと思ったらもう空になって戻ってきた。す,少しは味わってくれー!!

「どうしよう。みんな,かなりお腹いっぱいになってきた感じ。」
「ええい!帆立のバター焼も割愛して蕎麦行こう!」

日本から運んだ鰹節で丁寧に出汁をとった汁は冷蔵庫に冷やしてある。乾麺だが大鍋に茹でてから冷水でしめた福島の蕎麦に戻して甘く煮付けた日本産のどんこを飾り,冷たい汁をはる。薬味は刻み葱とワサビ。

その間に醤油と生姜で下味をつけた唐揚に着手。良質な片栗粉もここで放出。48個だ。本当はイワシかアジの竜田揚げを考えていたのだがタイ食材店の魚には手が出なかった。

この頃になると客の男たちがかわるがわる腕まくりをしてやってくる。

「皿を洗わせてください。」

アメリカンだ。でも,せっかくだけど皿や鍋はドレミが片っ端から洗ってるので,テーブルの方が跳ねないと仕事はない。日本人ダンサーも一人ずつお礼に来る。ボクは男の子をつかまえて,

「オクラホマシティの方に行ったら,ランディ・バースのグッズなんか売ってないかね。」

と聞いた。

「バース…ですか?俳優でしょうか。」

バース知らないの!?真弓,バース,掛布,岡田だよ。えー!!掛布も知らない!?

バースはオクラホマ出身で,帰国後牧場経営のかたわらオクラホマ州会議員に当選して議員をしているはずである。ボクの弟やドレミの親友チョコちゃんなど彼のファンも多いので,グッズなどあればお土産に買いに行きたいと思っていたのだ。ダンサーが他の日本人や野球好きのロバートなどに聞いてくれたが誰もバースを知らない。

「すみません。」

気にすんなよ。…世代だ。日本でもおそらく半分くらいの人はもうバースを知らないのだ。

客たちは完全に満腹しているようだ。ここで唐揚を運んだら無理をさせることになるだろう。お好み焼き用に持ってきた清水産の桜海老も出番を失った。唐揚を包んで日本人ダンサーたちに持たせようと大きな紙コップに詰めているところにアンソニーがのっしのっしとやってきた。

「そのチキンはテイクアウト用で食べてはいけないのか?」

声,でかいよ。

「もちろん,よかったら食べて。美味しいのよ。」

彼の顔がむふふと笑う。ドレミもにっこりと笑う。ボクもうれしくなって笑った。切干と唐揚だけはドレミの味付けだったからだ。アンソニーが無造作に3,4個の唐揚を自分の皿に乗せ,アパタイズのテーブルにも寄り,わずかに残っていたゴボウや隠元も乗せてまたのっしのっしテーブルに戻って行く。

こやつ何たる胃袋を持っているんだ。アパタイズコーナーをもう何周も回っていて,確実にみんなの倍以上は食べている。ただの食いしん坊ではない。ここまで見事な食べっぷりは料理人の心を蕩かす。ボクはドレミ自慢の唐揚をむしゃむしゃ夢中で食べている巨漢をとても好きになった。だが,彼の本領はまだこれからだった。

客たちが食事を終えておしゃべりタイムになったときだった。厨房ではネイサンとウイノーナが並んで後片付けをしていた。ボクとドレミはと言えば椅子にへたりこみ,大量の調理のために食欲もなかったので,ひとつ残っていたお稲荷さんを二人で分けて食べたりしていた。実は帆立と桜海老以外にも撤退したものがある。おはぎはたぶん日本人以外食べられないだろうと,ウイノーナが大きなバット一杯のケーキを焼いて持ってきていたのだ。

そこへまたアンソニーがのっしのしやって来た。しばらくネイサンとウイノーナの作業を見守っていたかと思うと,いきなり頭をかかえるようにして叫んだ。

「あれえ!!?」

もちろん客たちのいるパーティ会場にも響き渡る例の割れ鐘声である。

「苺のケーキは…!!どこいったんだぁ!!?」

このときばかりは思わず手をとって巨体に抱きつきたくなるほど感動した。今度はウイノーナが嬉しそうにケーキを取り分ける。客たちが次々と皿を手にした。ボクたちも元気が出てきて大きめのを一切れずつもらった。アンソニーの胃袋…それは料理好きに感動と幸福をもたらす宇宙だった。


ケーキを食べているところにJJと奥さんがやってきた。まだ結婚したばかりでラブラブカップルだ。ボクたちが結婚20周年だと聞いて驚いている。


若いわりにJJの話し方には如才がない。タルサの春に話題が及んだのでボクは聞いた。

「芝生や草地に一面咲いている紫の花は何という名前の花?!」

それが素晴らしいとほめるつもりだったが,どの花のことを言っているのかなかなかわからないらしい。レッドバドのこと?いやそれは木じゃん。小さくてどこにでも咲いてる…奥さんがようやく思い至った。

「ああっ…WEEDS(草)」

「は?!…いや,名前はなんていうの?」

「だから草」

信じられないことに,どうやら春の街をうめ尽くすホトケノザには名前がない(もしくは誰も知らない)ようだ。JJも肯く。

「ええ!?日本じゃあの雑草に名前があるの?ブッダの椅子?じゃあタルサには仏さまがいっぱいだー。あはは」

笑いごとではない。この州の人たちはみな一面のホトケノザに春を感じたりはしないらしい。ボクなら毎朝毎夕,一句ずつ俳句でもひねりたくなるような光景なのに…。

パーティが終わって外に出ると空一面の星がホトケノザを青白く光らせていた。緯度はほとんど変わらないから夜空の星は東京と同じはずだ。

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