6/チェロキーと握手する

Jan, 2008

ドレミは朝からネイサンのレッスン場を見学に行った。ボクは疲れもあって一人家に残ってひたすらインターネットでオクラホマの観光スポットを検索する。キーワードの組み合わせが悪いのか,英語ではなかなか思うようなヒットがない。

ウイノーナの言うとおり近くにめぼしい場所がないことは承知している。ボクたちはただ久しぶりに外国の道をドライブしたかったのだ。住んでいる人には何でもない景色や街角がボクたちにはとても刺激的な非日常だ。だから行き先はどこでもよかった。とは言うものの,何か目的なり目標物がないと用もなく車を走らせるというのは張り合いがないものだ。

ドレミとウイノーナが帰ってきた。タルサバレエのレベルは想像を超えて素晴らしかったとドレミは興奮気味に報告する。

「shuも来ればよかったのに。」

昨夜の日本人ダンサーたちにも会ってきたと言いながらボクに小さなメモを手渡した。

「きのうの男の子が調べてくれたんだって」

メモには日本人らしい整った文字でランディ・バース議員のオフィスの住所が記されていた。州都オクラホマシティの中心街にある。お土産を売っているとは思えない。これで「バースグッズを買いに行く旅」の可能性は完全になくなった。


午後にはアーカンソー州境に近いタラクワへ行く。先住民族(ネイティブアメリカン)チェロキーの街だ。そのままどこか一泊旅行に向かうつもりだった。ウイノーナも毎日ボクたちの世話では疲れるだろうから一晩はモーテルに泊まろうと日本を出るときから計画していたのだ。

ところが「チェロキーの村なら行ってみたい」と,ネイサンが半日の休みを取ってきた。タラクワはタルサの東,車で2時間ほどの近さなのでお昼から出かけても十分日帰りできる。

ネイサンが早退して来るのを待って出発した。お弁当は昨夜の残りのおはぎと唐揚げ,ハンドルを握るネイサンの運転は性格そのままだ。いきなり前をゆく左折車のウインカーを見落として急ブレーキがかかる。

「気をつけてよ!ドレミたちも乗ってるんだから!」

ウイノーナが怒っても

「ワタシハ ウンテン ガ ジョウズ デスネ」

ネイサンが日本語でうそぶく。

「それはジョークか?」

とボクは尋ねた。…受けた。ウイノーナが笑い転げている。思えば英語で何か言って受けたのは初めてかもしれない。


が喜んでいる場合ではなかった。フリーウェイに入ると

「お弁当食べましょ。」

とウイノーナが言う。


ちょちょちょっと待った!ネイサンも運転しながら食べるのか。ドレミがすかさず言う。

「の,飲み物が欲しいわ。スタンドに寄って。」
「オレせっかく国際免許証取ってきたしそろそろ運転したいかなー。なーんて。」

こういうときのボクたちの呼吸はぴったりだ。

「そうよね。ネイサン停めて。」
「OK」

…って,いきなり,反対車線のスタンドに向かってハンドルを切る。


ひょえー!ありなんだよね,これ。わかっててもこわい。地方ではガソリンスタンドが日本のコンビニとほぼ同じ機能を持っている。


ちょうど日本なら肉まんが並んでいるようなケースがあって,そこにドーナツが売られているのをドレミが目ざとく見つけた。

「shu,これクリスピークリームのドーナツだ。」

新宿南口の支店ではいまだに行列の途切れることがない。ぴかぴかの化粧箱にきちんと並べて仰々しく売られている。

試しにひとつ買っていると,ウイノーナが

「そんなの買うの?」

と眉をひそめる。最低ランクのジャンク菓子という位置づけらしい。うーん,確かに新宿で30分も1時間も並んで買っている人たちにはとても見せられない売られ方だ。

飲み物を買い作戦通り運転を交代したボクたち。唐揚げにパン,おはぎのお弁当タイムも安心,美味しい。行く手にはどこまでも平原が続く。やがてフリーウェイを東に外れて湖水地方に入った。少しでも風景に変化のありそうな道を選んだのだがスイスのような景色を連想してはいけない。上高地の大正池をご存知の方は「大雨で濁った巨大大正池」がぼこぼことある情景をご想像あれ。焼山や穂高岳はなく湖に立ち枯れの木が遠くまで続いている。

「夜通ったら怖そうだな。」

景色を一層凄惨にしているのは湖岸や道の両脇に立つ木々だ。ほとんどの大木がまるでゴジラでも通ったかのように幹から折れたり裂けたりしている。傷はどれもまだ生々しい。

数週間前にオクラホマ一帯は水気の多い大雪にみまわれた。梢の着雪が凍ったため,その重みに耐えられず大木がばたばたと倒れたそうだ。タルサの市内でも沢山の木が倒れていた。枝の広がった大木はほとんどやられている。どんな大雪だったのか想像するのがこわいくらいだ。


湖水地方を抜けるとまた放牧地が広がり,やがてタラクワの町に入った。持っている地図が州別アメリカ地図なのでタラクワの町はほぼ点に近い。


さすがに迷ってガソリンスタンドで地図を確認していると,

「ネイサン,あそこで博物館の場所を聞いてきて!」

とウイノーナが給油ポンプのあたりを指差す。

いかん!

すかさずボクもドレミを派遣した。

案の定ネイサンはスタンドに居合わせた人の中でもいちばん道案内が不得手そうなおじさんに話しかけてしまった。逆に「それは何の博物館か」と聞かれて答えに窮している。救助に行ったドレミはまだまだ話し足りないおじさんにお礼を言ってネイサンを引き戻すのが精一杯の様子だ。

勘で行くしかない。

サイトからプリントアウトしたイラストのような地図を頼りに何とかチェロキーミュージアムにたどり着いた。


チェロキー族は今から160年前まで今のジョージア州北部アパラチアの山岳地帯に住んでいた。


モカシンと呼ばれる毛皮のブーツを履いて,男は狩りをし女は籠を編む。



マメとトウモロコシを栽培し,春のグリーンコーンダンスには男女が集まって楽しく踊る。狩りに出る前,男たちが仮面をかぶって踊るブーガーダンスは子どもたちのあこがれだった。



最初に侵略してきたのはスペイン人だった。それからフランス,イギリス。勇敢なチェロキーの男たちは大国が繰り広げる植民地争いに巻き込まれその兵士として最前線を戦った。



そして独立戦争。移民たちにとってそれは自由と権利を求めた戦争だが,ネイティブアメリカンにとってはこの世に突然出現した彼ら「アメリカ人」たちが,自分たちの住んでいる土地の横取りを宣言したのに他ならない。チェロキー族は最初イギリス側について戦った。



敗れたチェロキー族はジョージワシントン新政府に服従する道を選んだ。狩場にしていたほとんどの土地の権利とひきかえに,故郷の自治権を得て町を作り,アメリカ人として生き残ろうとしたのだ。



多くのネイティブアメリカンが故郷を追われて滅びてゆく中,チェロキーは根気良く合衆国政府やジョージア州に従い,ヨーロッパ文化を受け入れていった。


議会を作り町には教会や学校を建てた。



チェロキー語の文字を独自に発明し,普及して英語だった成文憲法を自国語に直した。新聞も発行した。

大日本帝国憲法が公布される60年も前のことだ。



生活様式は変わったが,祭礼や球技など独自の文化を継承し,裁判所や商店が立つ首都ニューエチェッタを中心にして平和を愛する自治国家が生まれた。



しかし合衆国政府やジョージア州政府にチェロキー自治区との約束を守る意思はもともとなかったとしか思えない。彼らはイギリス軍との戦闘や辺境の先住民を鎮圧するために,使い捨てる戦力としてチェロキー族を必要としていただけだった。

ゴールドラッシュで白人たちが自治区に侵入すると,町の平和は崩壊した。

チェロキー自治区は合衆国大統領アンドリュージャクソンに窮状を訴えた。ジャクソンはかつてチェロキーたち先住民族を操ってイギリス軍に大勝し英雄となった将軍だった。しかし合衆国大統領にのぼりつめた彼は,もはや不要となったチェロキー族に苛烈をもって応える。協定を反故にし,議会で自治区の土地や権利を白人のものとする無法を次々と通していくジョージア州を全面支援したのだ。白人による殺人や強盗すら黙認された。

そしてある日軍隊がやって来る。


ジャクソンの後継者ヴァンビューレン大統領がインディアン追放政策を掲げて派遣した軍隊が1万7千人のチェロキー人全員を収容所に強制連行した。苦労して作り上げた家や町や畑は,一夜にしてくじに当たった白人たちのものになった。



翌1838年の春と秋に,その悲劇は「インディアン移住法」に基づき大統領命令で施行された。

過酷な収容所での越冬で,すでに2千人の死者を出していたチェロキー族1万5千人は,およそ1,200マイル (1,900 km…青森から九州までに相当する)離れたアーカンソー州西部からオクラホマに至る荒野までの道のりを徒歩で連行されたのだ。過酷な強制移動による死者は4千人とも8千人とも言われる。



その道を「TRAIL OF TEARS(涙の道)」と呼ぶ。



ここタラクワはその終点の地である。


ミュージアムのツアーに集まったのはボクらと小柄な夫婦の観光客の6人だけだった。


案内人は自分はチェロキーインディアンの末裔だが,純粋なチェロキーではなくいくつかの部族の混血だと自己紹介した。狩猟時代のチェロキー族の集落を復元した公園を巡りながら,文化や生活について面白くガイドしてくれる。聞き取りやすい英語だがボクには半分くらいしかわからない。



チェロキー族としての役割をみな割り当てられる。ドレミは「教師」,ボクは「バード(鳥)」だった。



女たちの踊るグリーンコーンダンス



男たちは狩りの前のブーガーダンスだ。



丸木舟の漕ぎ方。



ネイサンが体験してるのはチェロキー伝統の球戯だ。



二本のスティックを使って高いポールの上にある的を狙う。ゴルフに近いルールらしい。



夫婦連れの旦那さんの方がさかんに写真を撮りながらボクのカメラを気にしている。D60にタムロン18-200,さしずめ一眼デビューといったところだろう。このヘン,ボクも自分の方がちょっと優位だと知るととたんに大人気ない。


20Dの設定をそっとJPEGに変えて,折しも弓を射る実演に入ったガイドに置きピンする。弦を引き絞る瞬間から秒間5コマの連写を炸裂させた。


←ガイドは大受け

「機関銃で撃たれたかと思ったよ。」


おさまらないのはD60氏だ。続く吹き矢の実演で何度もガイドにやり直しを指示して,とうとう連写を成功させた。弓を射るのも吹き矢を吹くのも体のアクションというものは全くない。それぞれのメディアに数十枚ずつ,ほとんど同じ姿のチェロキー人を記録してニコン対キャノンの愚かなデジカメ対決は幕を閉じた。


ボクは手を挙げて吹き矢体験をさせてもらった。ガイドがカメラを構えるドレミに,

「ドゥドゥドゥドゥ(連写)はやらないの?」

と聞く。よほど面白かったと見える。



吹き矢はたいした肺活を使うこともなく真っ直ぐに鋭く飛ぶ。



代わってドレミ。



なんと見事にウサギの的を射抜いてごほうびにその矢をもらった。



帰国してみるとこの吹き矢が,唯一自分たちへのお土産だった。



現在,民族保護のためチェロキー人はタルサで週末に開かれるカジノの独占営業権を許されている。車のナンバープレートも独自のものを発給されていて,税制上の優遇措置も受けているそうだ。



駐車場にいたカーディナル(猩々紅冠鳥)



二人だけの旅なら涙の道を少し東に辿りたかったが,あまり歴史に興味のなさそうな二人をこれ以上つき合わせるのは気がひける。フリーウェイをタルサに帰ることにした。



勘が戻ってきたドレミのナビゲーションで苦もなく帰路が見つかってゆく。


後部座席では退屈した二人がカードゲームを始めた。窓の外には延々と草原が広がる。日本では決して見られない景色が続くが数時間ですっかり飽きた。あまりの単調さに眠気すら襲ってくる。

無数の牛がのんびりと草を食んでいる。

「みんな肉牛なのかしら」


ドレミが聞いた。

カードに熱中していた後部シートの二人が手を止めた。

「そうよ,みんな食用なの。」


「ハンバーガーデスネ」

突然のネイサンの日本語にボクは油断していた。吹き出した拍子に危うく前の車に追突しそうになる。

「白いのは?」

「バーガーキングデスネ」


危ない危ない。今度は予めスピード落としといたもんね。

タルサの郊外でアーミッシュのパン屋さんに寄った。



アーミッシュは昔ながらの暮らしを続けている人たちで,家電品や車などを極力使わない生活を守っている。全米いたる所に彼らの村があり,無農薬の野菜や食品を売って生計を立てている。



ニューヨークのような大都市にも決まった曜日に市を立てる。品質の良い食品は評判がいい。



人懐っこいパン屋さんの愛犬がなぜかボクが近づいたときだけ唸る。

カメラがデジカメ(家電?)だとわかるのだろうか。



帰宅してボクはパーティの残り食材で夕食を作った。冷凍エビはウイノーナが持っていたチリソースとコーンスターチでエビチリに,ホタテはバターと醤油をふってオーブンに入れた。手の早いアシスタントが二人もいるのであっという間に準備ができる。


ティラピアは唐揚げして,唐辛子をきかせた甘酢に落とすとこれまた旨い。

…が,これでは東京の休日の夕餉と同じではないか。

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