7/バイソンと出会う

Jan, 2008

4時に起きた。準備は万端,夕べのうちに荷物は暗闇でもわかるように並べてある。シャワーも寝る前に浴びたし,髪も洗ってドライヤーしておいたのであとはウイノーナを起こさないように外に出るばかりだ。ネイサンは少々くらいの物音で目を覚ますとは思えない。

ドレミとボクは闇の中で担当の荷物を確かめてうなずきあうと,抜き足差し足,表に出た。星はなく霧が立ち込めている。ボクたちは浮き立つ心を抑えながら,静かにワインレッドのマツダ323を霧の中に発進させた。ペオリア通りを左折して北に向かうとき,待ちかねたようにドレミが叫んだ。

「出発ー!」

行き先はカンザス州に近いオーセイジ地方にあるトールグラスプレイリー(背の高い草の原)だ。バイソンの保護区になっていて間近に見られることもあると観光サイトに書いてあった。

よしんば見られなくてもかまわない。

旅のテーマは「バイソンに会いにゆく」に決めた。本当に出会えるかどうかは問題ではない。


ペオリア通りはタルサの小さな摩天楼を左に見ながら真っ直ぐに北に向かう。



「スターバックスが開いてる。」
「コーヒー買っていこう。」

慣れないところでは何でも買えるときに買うのが鉄則だ。予想通り,いくつかの道と合流して州道11号となったペオリア通りは,あっけなく見渡す限りの牧草地に入った。東に向かった昨日に比べると樹木が多いがやはり着雪の被害は大きい。



いたるところで現役のオイルウェルがコミカルな動きを続けている。


少し明るくなり霧も晴れてきたので,車を道路脇に寄せて休憩した。遠くに牛の群れが見えた。後部シートから三脚を取り出しながらドレミに言う。

「寒くないよ。気持ちいいからお前も降りてみろよ。」

濡れた草に三脚を立てているとスタバのコーヒーを大事そうに両手で持ちながらウインドブレーカーを羽織ったドレミが歩いてきた。風もなく静寂がボクたちを包んでいた。望遠レンズの中の牛が思い出したように動かなければ時間が止まっているかと思うほどだ。


「あっ,見て!」

ドレミが群れの後ろを指差した。地平線上の一点が赤紫に光ったかと思うとみるみる霧のフィルターに太陽が現れた。


太陽が動いているのではない。ボクたちが静寂の大地ごと,東に向かってマッハの速度で回転していることを実感する。

牛たちが活発に動き出してグレードプレイリー(大平原)に朝か来た。

地図は例によって見開き1ページにオクラホマ州全部が入っている合衆国ロードマップだ。東北全図を見ながら那須高原をドライブしているくらいの縮尺だが,ナビに慣れて鈍っていた二人の勘が戻るのに時間はかからなかった。

「標識にオサゲ左って書いてある!」
「そこは遠回りになるから真っ直ぐ行って。」

地名は「OSAGE(オーセイジ)」だが,最初に標識を見たとき「オサゲ」と読んだのでそのままナビゲートの通り名になっている。二人だけに通用する呼び名をその場で作って使う。この方法なら何語でもどんと来いのはずだったが,ハングルだけは手強かった(「彩夏韓国/05モルゲッソヨ!」参照)

道は緩やかに曲がりながら岡を登り始めた。麓からも峠からも岡の全容が見渡せる。見回す限りの平原にぷっくりとなだらかな起伏を描く岡の上に立つ。


既視感の原因を考えていたら,小さい頃テレビでよく見た西部劇の光景だった。眼下の平原を幌馬車が通っても不思議とは感じないような景色だ。



二つ目の岡を登った頃から草原の油井が増え始めた。写真を撮るために車を降りるとぷんと石油の臭いが鼻を突く。


どうやらこの辺が油田地帯の中心らしい。コンコンコンコンと間断なく音を立てて忙しく首を上げ下げしている機械は,ちょっとかわいい恐竜のようにも見えてくる。

最初の目的地にしていた国立公園施設はまだ開園していなかった。ここはバイソンを柵の中で保護しているそうだが,門が開くまで2時間もある。

「運が良ければ大草原で会えるさ」

当然パスである。檻に入ったバイソンなんて日本の動物園にもいるだろう。もっとも確かめたわけではないが…。

トールグラスプレイリーの手前で小さな町に入った。石油と牧畜で裕福なのだろう,田舎町だが道や建物はこぎれいだ。立派なガソリンスタンドがあったので給油に立ち寄った。コーヒーを買ってトイレも借りた。


給油に来ていた男が隣りから手を振って何やら親しげに話しかける。

「Hey, boy…」

ヘイ!ボーイ!以外全く意味不明なのはボクの英語力のせいではない。その証拠にドレミも一語も聞き取れなかったようだ。たぶんかなり訛りが強いのだろう。

もっとも訛りと言えばニューヨークの言葉もオリジナルの英語とはかけ離れた立派な方言だ。しかし如何せん現実それがグローバルスタンダード(世界標準語)なのだから文句のつけようがない。地方訛り,イタリア訛り,ドイツ訛りに混じって,本家もイギリス訛り扱いだ。経済力と軍事力が全ての世の中らしい。もちろん日本訛りはもっとも聞きづらい英語の一つのようで,しばしば苦笑されるのもいたしかたない。

さて手を振っている陽気な男の件である。彼がボクに声をかけたくなった気持ちは良くわかる。何しろコーヒーを買ってきた妻をコンビニの入り口で激写している外国人だ。変人でない限り観光客に間違いない。こんな町にはるばる外国から訪れる観光客は極めて稀だろう。ボクだってウチの前の遊歩道で記念写真を撮っている外国人カップルがいたら声をかけるに違いない。

男がにこにこと反応を待っている。ここはスマイルで切り抜けるしかない。ボクは満面の笑みで思いっきり手を振り返した。何も言わないのもおかしいので

「小僧!ボーイはないだろ。オレの方がずいぶん年上だぜ。」

日本語でそう言い添えるとどうやら陽気男も満足してうなずいている。何とか友情が伝わった様子にホッとしなが車に乗ろうとするとすぐ背後にもう一人立っていた。

今度はジャケットに帽子の年配の男だった。懐かしい友に出会ったかのように両手を一杯に広げて歩み寄ってくる。だははハグですか,どもども,ぎゅーっと。

「Hey Boy…!」

あ,はい!!今度はワタクシ明らかに小僧でございます。歓迎いたみいりますが,おっしゃる言葉がわからず不徳の至りお詫び申し上げます。

…が,ご老体の話は途切れない。どうやら話題はすでに開拓時代の武勇伝に移っているようだ。


ドレミが写真を撮りながら

「素敵ですね」

などとおべんちゃらを言って笑っている。

…あ,そう言うわけで,ご勇談,もっと伺いたいのはやまやまなれど,ワタクシども先を急がねばなりません。誠に恐縮至極。これにておいとまをば。失礼つかまつりまする。



豪快な握手をして車に乗り込み給油ポンプに移動した。まだ後ろで手を振っていらっしゃる。ご老体。どうぞ末永くお達者で。陽気な若者よ,早く彼女作れよー。

油田の中にあるスタンドだから安いというわけではないだろうが,感覚的には相変わらず日本の半額くらいの感じだ。何しろマイルでガロンでドルだからガソリン代や燃費を換算する気がおきない。


スタンドを出て村に入ると,一面にホトケノザ(もっともここではただの「クサの花」だが)の咲く広場があった。



小さな建物が道に面して建っていて砂利を敷いた駐車場もある。訪ねてみると村の歴史資料館のようなものらしい。

「機械とか食器とか一杯あったよ,どうする?」

聞きに行ったドレミが草を歩きながら言う。


「パス」

気持ちよい朝は外を歩きたかった。広場全体も資料館の一部になっている。


農作業用の馬車や移民時代の貨車がある。



そして花畑の真ん中にいささかミスマッチの戦車。戦車はもう二度と動くことなくこのミスマッチが永遠に続きますように。



町をあとにしてさらに北へと進路をとる。町外れで新品のオイルウェルが並んでいるのを見た。販売店らしいプレハブも建っている。初老の人影もあったのでいくらくらいするのか聞いてみたかったが,またぞろ「ヘイ,ボーイ!」とやられて,オイルラッシュの頃を語られたりしたら困るのでやめることにした。



草原地帯に入りのどかな春の道はどこまでも続く。



トールグラスプレイリー(背高の草原)はカンザス州にまでまたがる大草原だ。春先なのでまだ背高ではない。夏には背丈を超えるそうだ。

←ようこそ背高草原へ



期待は高まる看板

←バイソンは危険です。

距離をとってください(近づかないでください)。



ますます高まる期待

←バイソン放牧中



が,やっぱりどこまでも続く道。まあ,そんなうまい具合にバイソンが出てくるわけないかとあきらめかけた頃…



あのシルエットは牛じゃない!


バイソンです。



車内から望遠レンズ。

「近づくな」と言われてもどのくらいまで接近すると危険なのかわからない。

ぎろりとバイソンがボクを見た。確かにこの距離だと突然こちらに突進されたらひとたまりもない。



こちらにも団体さまご休息中です。

ボクは車を路肩に寄せ,20Dに70-200を装着した。

「お前は車から出るなよ。」


慎重に開けたドアを盾にし,窓枠の上にレンズを置いて構える。

西部警察みたいじゃん。70-200を構えたまま,すり足でドアの前に回りこみ,後ろ手にドアを閉めると,気分はすっかりワタリテツヤである。それにしてもバイソンの迫力はすごい。

飼われているわけではない。乱獲で絶滅の危機にあるために野生の状態で保護されているのだ。


今この距離で,急に突進してこられたらひとたまりもないな。そう考えると,手にじわりと汗をかいてくる。 ゆっくりとズームをワイド側に引いてくると,ファインダーの中にドレミが入ってきた。



え!?

お,お前,何してるー!

…って,いかんいかん。

バイソンを刺激しないよう無声音。



「あたし,バイソンと記念写真撮るー♪」

な,な,な…。大きな声出すなよ。

ひょえええ。牧草地に入ってるしー!


ドレミの背後で何頭かのバイソンがちらりと興味なさそうな目でボクたちを見ていた。


バイソンさま,道路横断中でございます。



どうぞごゆるりと。



国立公園内に私有の牧場もあってごくたまにピックアップが通ったりする。



今度は牛の放牧地に無数のオイルウェルだ。



ボクはオイルウェルと写真撮るぅー。

別な意味で危ない。


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