03/常呂貝塚

Aug, 2007

常呂川の河口に常呂貝塚を探そうとしましたが思ったより町も川も大きくて戸惑いました。様子を見に堤防に登ろうと車を横路に入れたとき,ちょうど角の交番にパトカーが帰ってくるのがバックミラーに写りました。ダメもとと思って,交番までダッシュして声を掛けました。ボクより少し年の若そうなお巡りさんは,ボクを頭の先から足元まで眺めてにやりと笑いましたが,すぐには返事をしてくれません。黙ってパトカーの無線を切ったりウインドをあげたりしてから施錠し困ったようにまたニヤリと笑います。そしておもむろに振り向き,

「がっかりすると思うけどなあ。」

と言いました。何だ,この人…と思いながらも,促されて交番の中に入ると,地図を広げてまた

「あんまりつまらないものだから,がっかりするよ。」

と言います。

「これで世界遺産に立候補してるっていうんだから笑っちゃうよね。」

うーん,そこまで言われると東京からはるばる訪ねてきたボクたちは立つ瀬がないのですが,確かに栄浦の状態は世界遺産にはほど遠いかも知れません。でも,常呂遺跡そのものの貴重さはまさに世界基準なのです。

教えられた通りに常呂川の西岸を少し上流に行くと,貝塚はすぐに見つかりました。

 

かなり保存状態が悪い常呂貝塚


一般に貝塚は古代人のゴミ捨て場だと思われています。教科書にもそう書いてありますし,実際,貝塚からゴミが出土している例もあります。しかし,オホーツク街道の中で司馬遼太郎さんは,別の仮説を紹介しています。すなわち,貝塚は祭壇の一種とする説です。縄文人は自然に対して強い畏敬の念を持ち,食用にした動植物は,すべて神からの授かり物として,塚を作り自然に返したのではないかという考え方です。

貝塚を観察するための階段を登ると,見下ろす常呂川に夕方の涼風が渡っていきます。4000年の昔,この丘でその日食べた貝殻を積み重ね,祈りを捧げた縄文人の声が風に乗って聞こえてくるようです。

しかし,この保存状態はどうしたことでしょう。表面には粗く金網が懸けられただけで,風雨に晒されるがままです。観光客の仕業でしょうか,紙くずが金網に挟み込まれています。ドレミが取り除こうとすると,貝殻がばらばらと崩れて落ちました。

この日の夜,ボクは栄浦に住むオホーツク人夫婦の夢を見ました。

夫婦は子どもに恵まれませんでしたが,毛足の長い異国の大型犬を飼っています。樺太から交易に来たウイルタが連れていた子犬を,アザラシの骨で細工した装身具と交換にもらい受けたのです。

朝,女たちと栗の採集に出掛けた妻は,午後には集会所に集まった村の子どもたちに琴と笛を教えます。栗の分け前は二人では食べきれないので,半分を子沢山の友人にあげたり,夫の好きな山葡萄酒に交換して家路につきます。ずっと愛犬ロータが一緒です。

家には男たちと漁に出ていた夫が先に帰っていて,半身のマスを囲炉裏の土器でスープに煮ながら待っていました。彼は漁が下手で舟にも強くないのですが,祭司より天気や季節の予測に詳しいので,海に出るときも,森に獣を追うときも,村の狩猟隊には欠かせない戦力なのです。

「半分はシュイダのウチにあげてきたよ。」

「あら,わたしも」

「あははは,そりゃあ,子どもたちも大喜びだな。」

夕食の前,明るいうちに,夫はアザラシの骨で製作しているクマの置物の仕上げ作業に熱中します。妻の友だちに頼まれた装身具や長老が使う祭器の仕事もたまっているのですが,モヨロ村の彫骨師が見事な女神の半身像を完成したという噂を耳にしてから,対抗心がめらめらと燃えています。

「ごはん,できたわよ」

「うーん,も,もうちょっと。」

「ロータ,パパにごはんって言って」

金色の長い毛でロータがむふむふとじゃれつきます。

「わはー!やめれ,ロータ!わかったわかった,もう明日にするよ。」

笑う二人と一匹の背後に夕日に染まったオホーツク海が広がっていました。

オホーツク人たちの食生活は豊かで,高度なコミュニティーを形成していました。広く大陸や本州とも交易して,物資や情報の交換も盛んだったことが知られています。山葡萄のワインを嗜み,木の実から澱粉を抽出した保存食もありました。また,音楽を奏でた形跡もあり,実用以外の工芸品や美術品とも言うべき骨器も出土しています。

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