渋滞する姫路バイパスでついに意を決し,明日のしまなみ海道の宿を予約した。一ノ谷と予備日を合わせ二日の余裕を見て天気の動向を見極めてきた。そして明日の晴れを確信した。ここは思い切りゼイタクするつもりだったがあまり選択肢がない。中間地点の伯方島に目星をつけていた旅館はなぜか民宿より値段が安い。じゃらんに「お魚三昧コース」というのがあった。せめてそれでランクアップすることにした。
問題は今夜の宿である。明日の朝いちばんで因島の土生(はぶ)港を出港する船に乗りたい。どうせ夜明け前に起きなくてはならないので因島の宿ではメリットが少ない。福山には早立ちに適したビジネスホテルが多い。福山で早寝するという案もある。…が,如何せん早朝の船に乗るには土生港まで距離がありすぎる。
船の時間を考えると,因島で車泊するというのが最も現実的なのだが,旅の前半,動物園に予定外の一ノ谷や和歌山城を歩いて足腰が悲鳴をあげている。長距離サイクリングの前日である。ゆったり湯に浸かってベッドで寝ることが望ましい。…湯か。
因島には20年前の思い出がある。ボクはドレミのNYC留学中にしまなみ海道を一人旅した。橋は全線開通したばかりで,どの島でもよかったのだが因島を選んだのは,他の島には銭湯がなかったからだと記憶している。昼は絵を描き,夜は銭湯に行ってから人けのほとんどない公園の駐車場に寝ていた。
そうだ。あのときの銭湯…検索すると寿湯はまだ営業していた。懐かしさが押し寄せた。確かご高齢の女主人が一人で切り盛りしていた。もしかしてまだお元気だろうか。
山陽道から一気にしまなみ海道に入る。
尾道大橋には車道しかないため実質自転車の通行ができない。だからサイクリストも尾道と向島を隔てる尾道水道ははしけで渡ることになる。ボクはこの向島のはしけには何度も乗ったことがあるので,今回のサイクリングのスタートは因島からにした。
車は向島を縦断して次に因島大橋を渡る。
寿湯は20年前と同じ佇まいだった。
「ここが焚口だってー」
果たして女店主は20年前と変わらずに男湯の脱衣所に置かれたマッサージチェアで居眠りしていた。ボクたちの気配に気づいて起き上がろうとしたがすぐには体が動かない。ドレミがあわてて料金を女湯側から差し出した。
「これね,シャンプーがなかったら使ってください。」
忘れ物らしいシャンプーや石鹸が湯桶にたくさん入っていた。商売っ気のないこのサービスも変わらない。
「ボクは20年前,因島に絵を描きに来て,こちらに三晩お世話になったんですよ。」
「へえ~」と店主は笑顔で驚いてみせたが,たぶん同じような人はたくさん訪ねてくるだろう。
コインランドリーと同じくボクとドレミの銭湯履歴も日本中にたくさんある。
女湯からはドレミが地元の人と談笑するのが天井に反響して聞こえてくる。ボクは先に髪や体を洗い終えてから,入浴剤で緑色の湯に身を沈めた。
待つほどに
「シュウ~」
ドレミの声が天井から聞こえてくる。
「おう」
「そろそろ上がりまーす。」
「おう」
ボクたちの入浴は早い。急いで車に戻るとタローがたいてい座席の上に立ち上がって待っていたものだ。ボクとドレミだけで楽しいところに行っているのではないかと疑っていたのだ。ドレミが車内にタオルを干して,洗面用具や着替えを片付ける間にタローを散歩させるのはボクの役だった。湯上りの路地にたくさんたくさん思い出がある。
懐かしさに一人旅のときと同じ公園に移動して寝ることにした。あの時はNYCに携帯メールを書きながら缶ビールを開け,星空を見上げていた。
今日は後部座席にタローの気配が濃い。早く寝ないと明日は早い。
夜が明けた。寒い夜で4月なのに霜が降りていた。放射冷却であろう。空は狙い通り,いやそれ以上の晴天だった。この車泊用の寝袋はかれこれ30年くらい使っている。
同じ駐車場でルーフに自転車を積んで車泊していた家族にあいさつに行くと大阪からの旅行者だった。しまなみにはよく来るそうで,おそろしくていねいに色々な情報を教えてくれる。地図もくれた。
この駐車場を拠点に自転車で周辺の島までサイクリングしているとのこと。休日でも駐車場が満車になることはないので,人に迷惑をかけないし,ほどよく車が出入りするので,かえって車も安全だと言う。
予定では土生のパーキングを利用するつもりで調べてあったがこの情報は魅力的だった。島の北端なので,ここを出発点にすれば因島も自転車で縦断できることになる。
船を一便遅らせて急遽ここから走り出すことに決め,車を大阪ナンバーに並んで停めさせてもらった。
もう2か月も前からこの日の出発を想定して準備してきた。一泊でのサイクリングは初体験,二人とも何とかなるさ的な発想が苦手なタイプである。何度も荷物を確かめた。
さあ準備は万端,世界中のサイクリストが憧れるしまなみ海道ツーリングの始まりだ。
公園を出てすぐに強い上り坂になった。ボクは上り坂がとても遅いのでいつもドレミが先行する。100メートルほど先の坂の上まで行って待っているのが見えた。ボクは自分のペースを守って漕いでいた。低いギアでチェーンから異音がするのが気になる。いったん止まって確かめるため縁石に足を置こうとしたとき路上の小石が目に留まった。
伸ばした足が空を切った。目の前が一瞬暗くなってきな臭い匂いがした。気づくと視界は空だった。転んだ。左の膝の下が痛い。ひじも打ったようだ。自転車は後方に倒れていた。ドレミの方を見上げたが,何か作業に熱中しているようで事故に気づかない。痛恨の思いで目を閉じた。
「ボクたちのしまなみ海道ツーリングはスタートから80メートルで終わった。」
そんな旅行記の一文が頭の中に浮かんだ。