両国明暦の大火,震災…両国橋から蔵前橋

横網公園から両国東詰を巡り,大川沿いを蔵前橋に戻る約1時間半コース
2003

両国橋は江戸を1658(万治2)年,隅田川に架橋された武蔵,下総の両国をつなぐ大橋です.お江戸散歩の最初に,両国から大川端を歩いてみることにしました.

◆横網公園◆

横網公園には震災と空襲の犠牲者を悼む東京都慰霊堂があります.1923(大正12)年9月関東大震災のとき,造成中だったこの公園に避難していた4万人が家財道具から出火した大火事の犠牲になりました.大震災はボクの祖母が四谷で被災していますから,そんなに大昔のことではありません.次いで1945(昭和20)年の東京大空襲では,B29が深川,本所一帯に密集する木造住宅を,いかに効率よく焼き尽くすかを実験していたそうですから,これはもう虐殺と言うほかありません.

 

横網公園の供養塔


隅田川を中心とする江戸町人文化は,明暦の大火の復興事業で誕生し,すぐれた化政文化を世界に発信しました.そして震災と空襲によって,町並みとともに跡形もなく消え去ります.両国は,言わばその発祥の地であり,終焉の地でもあるように思えます.

◆慈光院◆

横網公園の西隣にお寺を見つけました.梵鐘と鐘楼があり,境内には旅姿の親鸞の像があります.帰ってから調べてみると,このお寺も震災直後に築地本願寺と京都本山が,いち早く設けた被災者の救護所の隣に犠牲者の追悼のために建立したそうです.浄土真宗が今でいう赤十字と災害ボランティアに加え,被災者の心のケアを行うカウンセリングにまで機能していた姿が浮かんできます.

 

慈光院本願寺


さらに大川端に向かって歩き,旧安田庭園と表札のある木の門をくぐります.

◆宗資庭園跡◆

安政年間といいますから江戸時代の終わり頃,常陸笠間藩主・本庄因幡守宗資が幕府から拝領した屋敷に造園した潮入回遊式庭園です.維新後,財閥が買い取り,さらに東京市に寄贈されました.「潮入回遊式」とは,引水している隅田川の干満に合わせて池の水位が変わり,多様な風情を見せるもので,現在は墨田区が人工的に水位を調整することで再現しているそうです.南側に国技館の屋根が見えてきました.ちょうどつつじが満開の庭園を抜けて,南西側の門から通りに出ます.

 

潮入回遊式庭園
(旧安田庭園)


◆両国国技館◆

明暦の大火後,幕府が「焼失した千代田城天守閣の再建は必要なし」としてまで町の復旧事業を優先したことは,この火事とともに世界三大火に数えられるロンドン大火後の対応に比しても誇るべきことです.
復興事業の最初に両国橋が架けられたのは,それまで防衛上の理由から隅田川に千住大橋以外の橋を許可しなかったことが,災害時に仇となって多くの犠牲者を出した教訓からでした.橋の両側は火災のとき延焼を食い止める目的で建築物が禁止されて広場となります.両国広小路を始め,現在も都心各地に残る「広小路」は火除け地の名残りなのです.また,大火の犠牲者を追悼する回向院が両国橋の東詰に建立されたのも,防災都市計画の一部です.こうして生まれた広場には平時,見世物小屋や芝居小屋が掛けられるようになりました.深川富岡八幡宮で興行されていた江戸勧進相撲の本場所が回向院境内に移転してきたのは天保年間です.

◆本所南割下水◆

義祖母が大好きな煎餅舗が近いのを思い出して,国技館から東に寄り道することにします.
この付近は南割下水のあったところで,民家や大名の下屋敷が密集していました.屋敷と言っても江戸中期以降,武家の財政は困窮をきわめていたので,大名でも使用頻度の低い下屋敷の管理まで手が回りません.無役の御家人の屋敷に至っては,雨漏りの修理もままならなかったようです.「居眠り磐音江戸双紙(佐伯泰英)」に登場する南割下水の住人で貧乏御家人の竹村武左衛門は,割り下水のドブさらい人夫で生活費を稼いでいます.
今はその面影もなく,江戸東京博物館から美しい道路が整備されて「北斎通り」と名づけられていました.モネやゴッホを始め印象派の画家に大きな影響を与えた天才葛飾北斎の生家も本所です.

 

東あられ本舗


目指す煎餅舗は大きな暖簾のしゃれた店でした.自分ではあまり食べないくせに,きれいに並べられて値段も手頃なあられを選ぶ段になると,ドレミは目を輝かせて熱中します.ボクはすぐに退屈してしまって外にでると,通りを隔てて小さな社がありました.
野見宿彌神社の狭い境内には日本相撲協会が建てた歴代横綱の名を刻んだ石碑があります.野見宿彌とは天覧相撲に勝った力士として日本書紀に登場することから,相撲の神様として全国に祀られているそうです.ここ本所の野見宿彌神社は国技館より古くからあり,明治18年創建とありました.

 

野見宿彌神社


◆両国駅◆

御竹蔵とは幕府の材木蔵のことで,現在の両国駅から国技館付近にありましたが,元禄初期頃に縮小されて武家地となりました.駅周辺の道路は広く,京葉道路を隔てて回向院の門が見通せて,両国橋東詰広小路と呼ばれた往時を思わせます.「居眠り磐音江戸双紙」には,揚弓場という賭け弓的の小屋を中心に,その賑わいが生き生きと描かれています.

 

両国旧駅舎


駅の南側に抜けるとちゃんこ鍋の看板が並んでいて,ドレミがさかんにメニューをチェックしています.
「今度,いっぺん食べてみようよ.」
などと話しながら,両国橋に向かって裏通りにはいると,風情のある構えの老舗も見つかります.
「本所深川ふしぎ草紙(宮部みゆき)」という小説の原案として一躍有名になった「本所七不思議」は,錦糸町にある人形焼屋さんの包み紙に書かれた絵物語ですが,その中にある片葉の芦は「両国橋南詰の駒止橋」に群生していたとありますから,あるいはこの付近かと思われます.

◆両国橋◆

両国橋を架けると幕府は本所,深川を下総から府内(江戸)に編入しました.次いで下流に新大橋,永代橋が架橋され,隅田川流域は江戸文化の中心へと発展していきます.両国橋の両岸は名づけられた直後には「両国」ではなくなっていたことになりますね.現在は東京を東西に貫く京葉道路(靖国通り)の一部です.

 

両国橋


大川の東岸を北に向かって歩きます.隅田川の堤防は散歩道として整備されている場所が多くてとても気持ちよく歩けます.つがいの鳩が飛んできました.
実は今回の散歩は,横網町にある病院で日帰り人間ドックを受診したついでです.

 

夫婦鳩


蔵前橋が見えてきました.ちょうど,旧安田庭園のすぐ西にあたります.
「本所七不思議」のひとつ「落ち葉なしの椎」の木があるとされる松浦邸も江戸切絵図で調べてみるとこのあたりになります.もしかしたらボクらの戻る病院の場所かもしれません.小説の中で宮部みゆきさんも指摘していますが,椎の木は常緑樹で落ち葉がある方が不思議なのですが….

◆蔵前橋◆

蔵前とはもちろん関東一円から幕府に集まる御米蔵の蔵前ですが,この橋は江戸時代にはありませんでした.1927(昭和2)年の架橋で現在も初代です.米ばかりでなく,江戸時代の貨物は船便ですから橋は必要なかったのです.切絵図と照らすと,当時の御蔵河岸の渡しよりは少し下流にあたります.

蔵前橋


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