八丁堀御宿かわせみの舞台を歩く

東京メトロ東西線日本橋駅から鍛冶橋,八丁堀,永代橋を巡り,茅場町駅まで,3時間半
2003

◆ブリジストン美術館◆

「あ!新聞の切り抜き忘れた!」

妻のドレミが叫びました.もう,1ヶ月以上前,朝日新聞に出ていた「印象派と20世紀の巨匠たち展」という小さな広告を切り抜いておいたのに,地下鉄の中でそれを忘れてきたことに気づいたのです.

「あーあ.持ってくれば,一人100円の割引だったのにぃ」

と,いうわけで,今回の散歩の出発点ブリジストン美術館は,企画展の最終日なので混んでいるかと思いきや,お客さんはまばら.それもそのはず,大半は見たことのある常設の作品を並べ替えただけの特別展でした.
美術館を出て,最初に数寄屋橋に向かいます.

 

←ブリジストン美術館


◆南町奉行所◆

 

江戸南町奉行所は現在の銀座マリオンの場所にあったと紹介されているガイドブックが多いのですが,古地図と照らすと実際にはマリオンと有楽町駅の間にある商店街付近だったようです.正門の場所は再開発工事中で立ち入りができません.

←有楽町駅前から
マリオンをのぞむ


◆桶町千葉道場◆

JRに沿って美しい柳の舗道を鍛冶橋まで戻ります.堀が大空襲の瓦礫で埋められたために,今は鍛冶橋と言っても橋はなく交差点の名前です.その脇の公園で一休みしながら,先ほど美術館から通ってきた八重洲二丁目の街並みを撮影します.地名を桶町といった頃,ここに北辰一刀流千葉周作の弟定吉の桶町千葉道場がありました.

←鍛冶橋付近から桶町方面


 

坂本竜馬が入門し,塾頭になったことで有名な桶町千葉道場があった場所は,柳通りの八重洲ブックセンター付近のようです.司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」に描かれた,周作の娘,美しい女剣士千葉さな子と竜馬の淡い恋物語の舞台です.

 

 

柳通り


◆明治製菓◆

あれ?ここ何かしら….

なーんて♪

実はここがドレミのお目当て「100%チョコレートカフェ」


鍛冶橋通りを南に歩き始めると,ドレミの足取りはほとんどスキップです.ほどなく見えてきました.100%チョコレートカフェの看板.彼女の今日のお目当てはここです.店の中に入ると,テーブルの数よりもきれいな売り子さんの数の方が多くて緊張してしまいます.それもそのはず,ここは明治製菓の本社ビルの1Fなのです.パンやビスケットとチョコレートソースがそれぞれ何種類かあって,その組み合わせをオーダーするシステムになっているらしいので,ボクはやたらと長い名前のパンとフランス映画のタイトルのような名前のソースを注文しました.運ばれてきたのは,なーんだ,味も形もいわゆるただのチョココロネではないですか.ボクがぱくりとチョココロネをほおばり,さらにつまんでいて残った先っちょを口に放り込むと,ドレミが小声で

「それ,300円よ」

と,言った.

「げー!じゃあ,一口150円のコロネかよぉー」
「しー」

蒸し暑い中を歩いてきたので,小さなグラスのアイスコーヒーも一息で飲んでしまったボクの前で,ドレミが満足そうに飲み物のおまけでついてきた日付入りのチョコサンプルを二人分味わってから,おもむろに棒のようなビスケットをチョコレートソースのカップにつけています.ところが一口味わった瞬間,彼女の表情が曇りました.どうやらチョコレート研究家のお口には不満の味らしいです.

チョコレートクリームをたっぷりつけて…. ううっ!見てるだけで胸が悪くなりそうです. 京橋,明治製菓本社のカフェにて.


実は鍛冶橋通りを皇居の方から来てJRのガードをくぐり,八丁堀を抜けて永代橋で隅田川を渡るのが,ボクたちが毎日通っている通勤コースの一部なのです.この100%チョコカフェも,助手席のドレミが目ざとく見つけて

「行きたい」

と,言い出したもので,ちょうど今度のお江戸散歩を八丁堀にしたいと考えていたボクは「しめしめ」と思って,即座によい返事をしました. いつもは渋滞の中を少しでも流れている車線に行くことしか頭にない道路を日曜に散歩してみると,また違った風景に出会ってなかなかいいものです.

 

ふだんは渋滞する車でパニックのようになっている昭和通りの様子も,日曜日には一変しています.


 

◆弾正橋◆

京橋地区を南北に流れていた楓川は,埋め立てられずに首都高速都心環状線の一部になっています.ですから弾正橋の下の流れも水から車に変わっています.この橋を渡ると左手(北側)一帯が八丁堀です.

弾正橋を渡ると,いよいよ八丁堀に入ります.

 

 

◆八丁堀◆

すずらん通りの入り口に「八丁堀組屋敷跡」の看板があります.妻がそれを読んでいる間に,ボクはカメラを持ってあたりの小道を覗いてみましたが,江戸時代を連想するものは何もありません.

もし,震災と大空襲がなかったら,江戸の街並みは残っていたでしょうか.残念ながらそうは思いません.古い街並みの残るヨーロッパの都市は石の街です.建物が密集して火災のリスクが高い大都会では,木造の街並みは理にかなっていないのです.ロンドンが木造建築からレンガ造りに転換するきっかけとなったロンドン大火は明暦の大火のわずか9年後のことでした.もし,江戸幕府が国際国家の一員として機能していれば,今頃ボクたちは,(情緒はともかく)石造りの奉行所跡や八丁堀の街並みを見ることができたでしょう.

ふと気づくと,道路の向こう側でドレミが何か言ってます.

「…が,あったらよかったのにね」
「え?」
「タイムマシーンがあったらよかったのにねー」

なぜかその言葉を聞いて,ばかばかしいとは思えずに胸がずきりとうずきました.着流し落としざしの与力・同心が闊歩する通りに立つ幻想を見たような気がしたのです.

 

八丁堀のお蕎麦屋さん


 

◆恋路◆

遊歩道になっている京橋川のあとを通って高橋まではすぐ.

高橋より,亀島橋を望む.


鍛冶橋通りと並行して,公園や遊歩道が途切れながら続いています.かつての京橋川のあとでしょう.「御宿かわせみ」の主人公東吾は,八丁堀にある自宅(南町奉行所吟味方与力の兄神林通之進の屋敷)から,大川端町にある「かわせみ」まで,朝に夕にそして夜中でも足繁く往復します.あるときは朝顔の鉢を提げて,またあるときはそば粉を担いですいすいと歩くのです.それは東吾にとって,心理的に0に近い恋路であり,恋女房るいに気を遣わせないために物理的にも0に近づけなければならなかった距離だったのでしょう.今回の散歩はその道のりがどれくらいの距離なのか実際に歩いてみるのが目的です.新大橋通りで時計を見てから遊歩道を進むと,あっけなく亀島川に突き当たりました.すぐ左手にいつも通勤で渡る高橋があります.

◆亀島橋◆

東吾がこのように京橋川沿いに亀島川に出て高橋を渡ったとすると,大川沿いには広大な松平越前守別邸があり,越前掘と呼ばれた堀端を大きく迂回する必要があります.もちろん小説の中の話ではありますが,彼はふだん最短距離を通って,ひとつ北の亀島橋を渡っていたと思われます.そこでボクたちも川に沿って北に向かいました.ドレミが

「はい!はい!」

と,早足を促します.最近,ウエストが「軽くヤバイ」そうで,やたらにウォーキングしている彼女の足について行くのははほとんど競歩に近いものがあります.今日の趣旨にはぴったりですが,いささか運動不足気味のボクはすでに息があがっています.

「ちょっと待ったー!」
「あ,またさぼろうとするー」
「ちがうちがう,ほら,お稲荷さん」

 

 

日比谷稲荷と亀島橋


天の助けか,道の脇に日比谷稲荷を見つけたボクは,膝に手をおいてあえぎながら一息つくことができました.この狭い駐車場のようなみすぼらしい環境にある神社の由緒は正しく,1457(長禄元)年に太田道灌が入府の際,大地の恵みに感謝して当時海岸だった現在の日比谷公園付近に建立したもので,1606(慶長11)年,家康の日比谷御殿建設に伴って,この地に移転したとあります.

再びドレミにせきたてられて,歩き始めた付近の町をかつて水谷町といい,堀部安兵衛が弥兵衛の娘妙と暮らしていました.亀島橋の西詰めに「堀部安兵衛武庸之碑」があり,ドレミがまた熱心に碑文を読む間に,再び息を整えたボクは車道の真ん中から東京駅方面にカメラを向けてみました.

 

亀島橋から東京駅,日本橋川合流点をそれぞれのぞむ.
水門の向こうが日本橋川です.


新大橋通りの八丁堀交差点が間近なのがわかります.平日ならば,矢のように車が行き交いとてもこんなところには立てません.橋の上から北を望むと霊巌橋の向こうに水門が見えます.亀島川と日本橋川の合流点す.船で日本橋川を下れば「かわせみ」の前にかかる豊海橋をくぐって大川に至ります.

亀島橋を渡ると中央大橋が見えてきます.

◆新川◆

亀島橋を渡ると正面に美しい橋が見えてきます.かつて佃の渡しのあった付近です.現在,中央大橋で結ばれた新川と佃島は超高級マンション街に生まれ変わっています.再び鍛冶橋通りと交わる交差点のビルの壁に「Echizenbori」という文字を見つけました.一瞬ドイツ語かと思ってよく見ると,越前掘という名の薬屋さんの看板です.毎日通っている道なのに気づきませんでした.


 

陽気のよい夜には,ときどきこの遊歩道を歩くと,ちょっぴりかわせみ気分にひたれます.


永代橋には鍛冶橋通りを行く方が近いのですが,いかにも味気ない道路なので,中央大橋の脇から大川端にでました.川沿いの遊歩道を少し上ると永代橋が見えてきます.

ここまで寄り道も多かったため八丁堀から25分でした.

新川河口付近から佃島を臨む


 

今は地名となっている新川は大川端町の南端で亀島川と大川を結んでいた運河の名前で,江戸切絵図には三つの橋が記されています.その河口あとの碑が現在の永代橋から数十メートルのところにあるので,そこから推測すると「御宿かわせみ」の場所は永代橋の西詰,それも北側のたもと付近ということになるでしょうか.


◆豊海橋◆

 

永代橋をいったん行き過ぎると,すぐに日本橋川の河口にかかる豊海橋に出ます.江戸時代の永代橋はこの橋をはさんで現在とは反対側に架かっていました.その場所には大川(隅田川)の両岸に案内板があります.深川長寿庵の主人で,同心畝源三郎から手札を受けている長助親分は,まず永代橋を渡ってからこの豊海橋を南に渡って「かわせみ」に駆けつけます.

豊海橋は江戸時代とほぼ同じ位置.

 

橋が投光されるのを待つ間に,永代橋を東に渡ってみます.


 

◆永代橋◆

永代橋の架橋は1698(元禄11)年.長さ110間(約200m)は当時最大級の大橋である上,大川の水運を確保するために橋脚を高く設計されました.そして1807(文化7)年の夏,台風の影響で,延び延びになっていた富岡八幡の祭礼見物に押し寄せた群衆を支えきれず,日本史上最悪の崩落事故を起こします.


崩落直後も東西からの人の流れが止まらず,ついに死者900人,行方不明500人以上という大惨事になりました.明治になって,現在の場所に移り,1926(大正15)年に鉄筋コンクリートで架け替えられて今に至っています.

「さっぱりと,おそばでも食べて帰ろうか」
ということになったのですが,あいにく八丁堀,茅場町付近は日曜の人口が極端に少ないビジネス街なので,お店は軒並み休業日です.結局,ときどき仕事からの帰りに寄ったりする八丁堀の「なか卯」で,山わさびそばとおろし冷うどんを頼みました.
ボクたちは,お互いが読んだ本で面白かったものはいつも交換して読むようにしているのですが,赤ちゃんができずに悩んでいた「御宿かわせみ」主人公るいと東吾の間には,179話になって待望の女の子が生まれています.赤ちゃんを熱望していた時期はもう遠いボクたちですが,やはりこんなシーンには,互いの心情を思って少々過敏になったりするものでして,果たして妻に「かわせみ」を読むように薦めるかどうか,まだ迷っているのでした.

 

大川の東岸から佃島


先に運ばれてきたおろしうどんがいかにもボクの注文したわさびそばより美味しそうです.

「おっ,オレのうどんが先に来たぞ.ドレミのはまだかな.山わさびとはまた,渋いもの注文したねえ.」
「え?…ああ!ずるい!」

ドレミにうどんを取り返される前にボク素早く割箸を割って,おろしうどんを一口すすると,冷たい感触に夏の味がしました.

お江戸の梅雨明けも近いようです.

豊海橋


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