04/舞鶴

Feb, 2009

助手席で母の爆笑が止まらない.

「あんたとしたことがねえ.」
「ふん」

ふだん何かと偉そうなボクの大失敗はいかにも痛快だろう.

「お・れ・を・誰だと思ってるんだあーあっはっはっは」

似てないよ!ボクの物真似をして自分でツボっている.

「あははあはは.ホントに気づかなかったの?」
「そうだよ!」
「あははは.ぜんぜん?」
「全然」

もしも一人だったら,あまりのショックと屈辱で,すぐには斜面を下れなかっただろう.

 

ボクは尚も母のおもちゃになりながら,勝手知ったる湿原の道を西に走った.鶴居村まで20分ほどの距離だ.ブッシュから鹿が顔をのぞかせる.沼には白鳥が遊ぶ.それら,ふだんならいちいち停車を要求するような光景にも母は見向きもしない.心はすでにタンチョウに飛んでいるのだ.


鶴居村に入った.ときどき牧場の道路脇などに車を寄せて,望遠レンズを構えている人を見かけるがタンチョウの姿は見えない.

タンチョウは渡り鳥ではない.夏の間は道東一円,遠くは国後にまで広く生息し,雪の季節になると鶴居に集まってくるそうだ.

かつてある農家の畑で,雪の中に餌を探しているつがいを見つけた人がいた.鳥に詳しかった彼が,納屋のトウモロコシを撒いて与えたのが始まりだったらしい.野鳥の保護などという概念すらない時代,まして長い冬を越えるのは人間だって大変だった頃のことだ.村人たちは,まさに備蓄している冬の食糧を鶴と分けるようにして与え続けた.

学名Grus japonesis(日本鶴)

タンチョウの絶滅は村人たちの素朴な優しさによって回避された.今年も1000羽を超える個体が保護団体によって確認されている.

 

Iサンクチュアリらしき施設が雪に埋もれるようにして見えてきた.駐車場にカローラを停めて見下ろすと,柵に望遠レンズの列が見え,その先に無数の白い塊が動いていた.

「ひゃー!あんなにいるよ.」


ざっと100羽ほどはいる.母がトイレに行っている間,レンズや三脚を準備しながらタンチョウを遠望していた.静まり返っているときはアクションもない.羽を広げたり,ダンスをしたりする鳥は必ずその前に高い声で鳴き交わす.カメラマンたちも鳴き声がすると,一斉にレンズを向けている.

母が戻って来た.

「わかったぞ,おふくろ!行こう.」

餌付け場の柵まで道路から30mほどだった.母の足はまだ達者な方だが,木道や氷の上ではすぐにバランスを崩して転ぶ.怖いと思って腰がひけてしまうからだ.凍った舗道よりも,新雪の広場を横切った方がマシだと判断し,細く踏み固められた雪道に迷わず歩みを入れた.よしんば転んだとしても,新雪の上ならば怪我はしない.半ばまで進んだときに,けたたましく一組のつがいが鳴き交わし始めた.カメラマンたちに緊張が走る.

 

「おふくろ!先に行く.」

ボクはひいていた母の手を離し,残りの広場を大股で一気に突破すると,空いていたスペースに三脚を立てた.覗いたファインダーに換算480mmジャストの距離で,先ほど鳴いたつがいの幻想的なダンスが始まった.


 

「きゃあ.ドシン!」

後方では予想通り母の尻餅ダンスが始まった.大方,カメラマンたちの緊迫感を感じ,ボクのあとを追って道を外れたのだろう.


「すみません,ありが…ああ!ドシン!」

後続の人に助け起こされてまた転んだようだ.

「ひゃあ,どうもありがと…うっひゃー!ドシン」

一度転び出すと,こわいものだから,上体がこわばり,下半身から力が抜けてしまう.もはや抱き起こすしかないのだ.

どなたかは存じませんが,ありがとうございます.

ボクはファインダーから目を離すことなく心の中で親切な誰かに感謝した.

おふくろ,すまん.今,この光景から離れることあたわず.母もカメラマンの端くれだ.シャッターチャンスを捨てて,助けに来ることを望んではいないだろう.

 

やがて母が雪を脱出して,柵に駆け寄り,シャッターを切り始める気配がした.薄い雲が光を和らげ,羽が白飛びしないくらいの程よい光でタンチョウを包む.全くどこに行っても,お天気がまるでボクたちのスタッフのように,最高のライティングを提供してくれる.


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