06/ペンションT

Feb, 2009

母の手をひき,凍える手で戸を開けたが,中の気温は外とあまり変わらない.訪ないを入れても返事はない.痺れを切らした母がもう一度大声をかけると,愛想のいい主人が奥から現れた.ボクたちの泊まる「丹頂の間」は,入り口のすぐ脇にあり,畳の上に絨毯がしきつめてあった.一歩入ると床がグラッと揺れる気がした.

ここで若干の解説が必要である.実はボクは不安定な床に極端に弱く敏感である.船はもちろん,浮き桟橋に立っただけで気分が悪くなる.何が苦手と言って,洋服屋さんの試着室ほどキライなものはない.あの不安定な床を想像するだけで酔ってしまう.なぜ飛行機が平気なのか不思議なくらいだ.そんなわけで,一夜の滞在中,ボクは自室でずっと這って歩くことを余儀なくされた.

母は凍えて声も出ない.石油ファンヒーターを点けようとすると,使用時間についての注意事項が細かく記入された紙が貼ってある.手に息をかけながら熟読した.

「とにかく,今は点けていいらしいよ.」

へたり込んでいる母に笑いかけながらスイッチを入れたが,予熱に時間がかかってなかなか点火しない.ボクは這って行って,母のスキーウエアのポケットに手をつっこんだ.

「うっひゃー.冷たい!」

母のウエアにはあちこちに携帯カイロが入っているので,とりあえず暖がとれる.手が動くようになったところで荷をほどいた頃,石油ファンヒーターが間抜けな音を立てて点火した.

遅いよ!

廊下やトイレにもやたらに節電の張り紙がある.が,考えようによっては,湿原の環境に配慮していると言えなくもない.

「落ち着かれたらロビーにどうぞ.」

と,宿主に声をかけられた.部屋を出るときにはストーブを切る規則である.ようやくウエアを脱げるようになったところだが致し方ない.確かに暖めすぎると,冷え切った機材が結露を起こす恐れもある.ボクたちは潔くストーブを消して部屋を出た.もちろん廊下までは這って進むわけだが,ボクの身長ならせいぜい3ハイハイくらいの距離,一般には3畳間と呼ばれる広さだ.

 

ロビーである.


もはや言葉では綴り難い.すぐ脇には,小さなテーブルにパイプ椅子が据えられ,人の良さそうな若い夫婦が無声音で会話していた.お互い同宿の客があったことに驚き,続いて何とも言えない共感とともに会釈を交わした.もう一人,家人か客か判別の難しい男が反対側に座っている.

やけに人当たりのよい宿主とその母親とおぼしきお年寄りが,ロビーから間仕切りなくつながっている厨房で忙しそうにしている.どうやらかわいい声の娘さんはスタッフではないらしい.くどいようだが,特別に安い宿を選んだわけではない.周囲の相場と同じ,普通の値段のペンションである.一般的認識としては,ペンションとは温泉がない代わりに手料理の美味しい民宿である.

トレーに晩餐が運ばれて来た.これも文章化するのは難しいので画像をご覧あれ.

 

母の口があんぐりと開いたままふさがらない.母の携帯には旅行を知った友だちから盛んにメールが入ってくるが,内容はほとんど「ご馳走は何食べた?」と言う趣旨である.一般には冬の北海道旅行=グルメであるから無理もない.


母よ.ボクたちは物見遊山のツアーで来ているのでない.湿原にツルを追っているのだ.ごちそうは似合わない.雪を踏み分けるストイックな旅にはカレーこそ本道ではないか.…ほとんど自分に言い聞かせている.母がいたずらっぽくボクを手招きし,耳元で言う.

「お昼にカレー食べなくてよかったねー.」

おふくろ!聞こえるよ!

宿の名誉のために補足すると「カツカレー」である.ホタテも2個入っている.ただ閉口したのはカレーソースにほとんど味がないことだ.別に注文した北海道限定サッポロ缶ビールとごはんに対して,わずかに添えられたポテトサラダとたくあん二切れの塩気を有効に使わなければならない.

5人の客と2人のスタッフが無言のまま,ぼそぼそとカレーをほおばり,10分ほどでディナータイムは終わった.謎の男に倣って,トレーをみんなが厨房に運ぶと,

「それではこれから,タンチョウについてワタクシがレクチャーをします.」

宿主がそう言って,ホワイトボードを出してきた.

「え?」

さすがに母の目が泳いでいる.父の介護を頼んでくる準備やらで,夕べはほとんど寝ていない.ボクも14時間勤務で深夜に帰宅した.そして今朝からはずっと機関車とツルを追っていたから,二人とも体力は限界に来ている.

母と目が合った.それだけで二人の打ち合わせには十分だった.母が床にうずくまる.ボクはその背中をさすりながら宿主に言う.

「すみません.母の体調が悪そうなので,部屋で寝かせてきます.」

心配顔の宿主や若い夫婦が見つめる中を,よろよろと足元も危ない母の肩を抱きながらロビーを退出する.廊下から自室に入ったところで演技終了.立って歩けないボクに代わって,母がシャキシャキと布団をのべる.

「むははは.おふくろ,なかなか迫真の演技じゃん.」

トントン♪

予想外のノックの音.

「やばい!おふくろ,布団に入れ!」


なんだか中学生の修学旅行みたいになってきた.先生ならぬ宿主が顔を出す.

「湯たんぽ持ってきました.お母さんの具合,どうですか?」

「あ,あ,これはどうも.ご心配かけてすみません.母が寝たらロビーに戻りますから,どうぞ始めてて下さい.」

えーん.話の成り行きで,ボクだけレクチャーに戻ることになった.K牧場でカメラマンたちが言っていた講釈…ところが,これが勉強不足だったボクにはとてもためになった.実はこの旅行記にある丹頂鶴についての情報は,大半がここで仕入れた話をあとで調べて裏付けたものである.

「浴室が恐ろしいから,もう風呂には入らずに寝る.」

と,むずかる母を無理やり引きずって大浴場に行くと,「大」ではないが普通の民宿の風呂だった.問題は湯が少ないことだ.しかし,もはやこの程度のハードルには驚かない.まず,母を端っこに浸けて水位を上げてから,ボクは対角線に寝そべって首まで温まった.


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