07/音羽橋

Feb, 2009

大浴場を出て部屋に戻ると,もはや何もすることがなかった.一度はふとんに潜ったが,まだ8時過ぎである.ふだんの生活パターンからいって眠れるはずもない.

「おふくろ,先に寝ててくれ.オレちょっと,ビールをもう一本もらってから寝るわ.」

廊下からガラス戸越しにロビーを覗くと,宿主と例の謎の男が床に駄菓子を囲んで酒盛りしていた.

「すみません.眠れないので,もう一本缶ビールを頂けますか.」

思い切って引き戸を開けると,宿主が言った.

「そんな遠慮しないでこっちに来て下さい.お母さん,どうですか?」

少し後ろめたい.謎の男が,ビールを取りに行こうとする宿主を制して地酒の5合瓶を持ち上げた.

「こんなのもありますがいかがですか.」

にんまりと笑う.この男の笑顔を初めて見た.

「せっかくだからそれを頂きます.」

酒席の話題はタンチョウを追っていて急死したカメラマンの追悼だった.やはりこの宿の常連だったそうだ.遺した写真集は身震いするほど凄いショットばかりだ.

「いい人でした.」

と言いながら,男がボクのコップになみなみと二杯目の酒を満たした.少し甘いが香りも口当たりも極上だった.北海道でこれほどの酒があるとは正直驚いた.

「釧路の地酒でこの時期しか手に入らない生酒ですよ.」

タンクという愛称のこの男,ボクより5つくらい年下で,神奈川からフェリーで毎年やってくるそうだ.狙っているのはタンチョウではなくシマフクロウである.明日も4時前に起きてポイントに向かうと言う.彼らはそれぞれ湿原のあちこちに自分だけのポイントを持っていて仲間にもその場所は教えない.小さなデジカメを起動させ液晶画面を見せてくれる.再生されたフクロウやタンチョウの画像を見てぶったまげた.

「サブの三脚に載せた望遠鏡のファインダーをデジカメで撮るんですよ.」

なるほど,丸く黒縁の写った写真もある.こんな技があるとは知らなかった.当然だがサブじゃない方の銀塩EOSには,これと同じ画像が記録されていることになる.フェリーで来るのは,機材を積んだ車が必要だからだろう.

「レンズは何を?」

「F2.8の400ミリです.」

通称ヨンニッパ,ヨドバシカメラでも120万円近い.

「前の仕事の退職金をつぎこみました.」

世の中には恐ろしいヤツがいるものだ.タンクくんがまた生酒を注いでくれた.すっきりとした飲み口に,もはや床が揺れてもわからないくらいに酔いが回ってきた.ただ,おつまみが駄菓子というのはいただけない.

「明日の朝,何時に音羽橋に行けば三脚の場所取れますか.」

「5時に行けばなんとかなるかも.」

今夜は月明かりのツルを撮っている人が多いだろうとタンクくんが言う.それら徹夜組が夜明け前には音羽橋に集まって来て,捨て脚をしながら駐車場で仮眠する.

「捨て脚って何ですか?」

「場所取り用の盗まれても惜しくない三脚のことです.」

「あ,なるほど.」

常人には理解しにくい世界だ.

「10時だ.タンクくん,寝よう.」

 

宿主が言って酒宴はお開きになった.ボクは煙草を吸いに千鳥足で表に出た.雲が流れて月が見え隠れする.釧路方面の空が灯火で紫色に明るい.酔ってあまり感じないが鼻の中にじゃりっと氷の感触がある.じっとしていると辛いので歩いてみた.


ボクたちのカローラにも若夫婦のヴィッツにもフロントガラスに凍結防止シートがかぶせられていた.知らないうちに宿主がかけてくれたに違いない.

いつかまた湿原に泊まることがあればやはりここに泊まるだろう.出会いとはそうしたものだ.ただし酒の肴は忘れずにスーパーで買ってこよう.

そっと部屋に戻ったつもりだったが,母が起き上がり,湿布を貼るから腰を出せと言う.慣れないレンタカーを運転して腰が痛いと昼間言ったのを覚えていたのだ.

「いいよ.」

「効くんだって,これ!」

「やだなあ,冷たいから.ひと思いにやっっっ…うひゃー!!ま,待った,まだ心の準備がっっあーっっ!んがあ!…おふくろ!明日は4時半起きで,音羽橋に出撃するぞ!」

お尻を出しながら作戦を伝えてもいささか迫力に欠ける.

携帯のアラームで目が覚めた.宿のマニュアル通りにしいた布団は上に下にやたら何枚も重ねていたので,かなり重かったが寒くはなかった.持病の腰痛のために,ボクはすぐには起き上がれない.身をよじって柔軟している間に母が二人分16枚の布団や毛布を全部たたんで積んだ.「ごろごろ」を思い出した.小さい頃,母が「ごろごろーん」と言いながらボクと弟を布団から畳に転がした.ボクたちはそれが好きで,毎朝,母が来るまで待っていて,「ごろごろして」とねだったものだ.

無言のまま装備を担いで外に出た.西に傾いた満月のおかげでほの明るいが一呼吸で鼻毛が凍り,肌がピリピリと痛んだ.タンクくんの車はもうなかった.凍結防止シートを外してエンジンをかけ,一気に国道に出た.すぐにフロントガラスが曇ったが,ベンチレーションから強制的に外気を入れ,曇りのとれたところから覗くようにして走る.気持ちがはやった.何とか換算480mmでも巣を狙える位置を確保したい.

音羽橋の上に数人の人影が見えた.タンクくんが前夜,「駐車場は対岸を使って,三脚はなるべく西側ほど良い」と教えてくれた.橋を東に渡りながら見ると,もう中央付近にまで三脚が並んでいる.

「おふくろ!走れ!」

駐車場の入り口で停車した車から,母が重い三脚を胸に抱いて走り出し,闇の中に消えて行った.母にはここで何をするのか,何があるのか言ってない.うまく場所取りできなかったときに,がっかりさせたくなかったからだ.だから母は何を撮るのかもわからないまま駆けている.大丈夫,母なら何とかする.ボクは空いているスペースに車を停め,機材を担いで現場に向かった.

 

この時点で手前から三人目.ギリギリ巣を抜ける位置に三脚ではなく母が立っていた.「手がかじかんで…」三脚を組み立てられなかったのだろう.それでも大手柄だ.


 

こうしてボクたちは,共同購入した中古のEF300F/4Lを世界のネイチャーフォトグラファーが憧れる「夜明けの音羽橋」にセットした.狙うは前方350mの川面,そこはタンチョウたちのねぐらになっている.


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