08/ケアラシ

Feb, 2009

カメラマンたちが待っているのは,雪裡川に最初の朝日が差し込む瞬間だ.囁き合う声は日本語よりも外国語が多い.韓国語,中国語,英語.外国人ネイチャーフォトグラファーが冬に多く来日する目的は猿と鶴だそうだ.温泉に浸かる信州のサルと雪の上で踊るここのツルは他の国に類がないらしい.中でもツルのねぐらを間近に見られる音羽橋の人気は高く,あまりにもカメラマンが多くて危険なことから,村が10年前に2億4千万円かけて,見物用の橋を架け駐車場も整備した.

風もないのに肌が痛い.指はとっくにドラえもん状態になっている.かつて経験したことのない質の寒さだ.放射冷却したために,前方の川には美しいケアラシがさかんに立ちのぼっている.その上,薄紙を剥ぐように見えてくる背景の林は,前日までの雪に化粧され,梢には霧氷の花が咲いている.ずっと雪が少なかったそうなので,おそらくこの朝が今シーズン最初で最高のコンディションだろう.静けさの中に期待と緊迫感が満ちている.


母は最初,400mmや望遠鏡を設置している人のファインダーを覗かせてもらったり,コンデジでボクを撮ったりしていたが,やがてあまりの寒さのために棒立ちで動かなくなった.それでも目だけはらんらんとしている.

 

 

空がピンク色に光り,タンチョウの姿が肉眼でもわかるようになってきた.ボクも母もイギリス人も韓国人も中国人も,みな棒のように並んで待っている.


 

頭がぼおっとして,時間の感覚もなくなった頃,おもむろにその瞬間が訪れた.朝日がねぐらに入り,ケアラシに光の線ができた.沈黙のまま,無数のシャッター音だけが響く.鳥たちが思い思いに羽を広げたり,歩いたり始める.

「タンチョウさまのお目覚めだ.」

ボクは母にシャッターを譲った.本当はカメラを交換してあげたかったが,指がほとんど動かなくなって三脚を低くするのが精一杯だった.


 

「幸せな鳥ねえ.こんなに大勢に見守られて.」

ボクの意見としては夜明け前から寝床を覗かれるツルたちとしては迷惑以外何ものでもないと思う.

川が神秘的な光に包まれた時間は10分ほどだった.撤収を始めたときには,もう指が開かなくなり,三脚に抱きつくようにして車に運んだ.頭皮が妙に突っ張ると思ったら,髪の毛が逆立って樹氷になっていた.

宿に戻ると一直線にロビーのストーブに走り,二人並んでうずくまった.

「いい写真が撮れましたか.」

宿主が朝食を運んできて言った.

「ありがとう.ばっちりです.」

「今朝はケアラシも樹氷もキレイだったからねえ.お母さん,大丈夫ですか?18度はいってたけど.」

 

6時半頃に若夫婦を案内して,ボクたちの様子を見に来たそうだ.鶴居の人たちは気温に氷点下とかマイナスとかをつけない.冬の間はふつう氷点下だからだ.

「それでも最近は暖かくなりました.雪もめっきり少ない.」


ボクはハムエッグと塩気の少ない味噌汁で3杯目のごはんをお櫃から盛った.母は箸がまだ持てない.何度も取り落として,不安そうな表情で言う.

「shu,わたし左脳が切れたかもしれない.右手が効かないよ.」

昨秋,父が脳梗塞を起こして危うく右半身の自由を失いかけた.母の不安はわからないでもない.

「ばかなこと言ってないで,グーでいいから,お茶碗一杯は食べなさい.」

食の細い母にも炭水化物を補給させなければならない.

タンクくんが何気ない風で帰って来た.彼が着るとそうは見えないが,よく見ると全身有名アウトドアブランドの防寒具で固めている.やっぱりボクたちのスキーウエアは無謀だったかもしれない.タンクくんのデジカメのモニターには,朝霧の中にシマフクロウの目がぎらりと光っていた.

日が高く昇って,外がまぶしいほど明るい.ボクたちは慌ただしく出立の支度をした.また湿原にタンチョウの姿を追う一日が始まった.


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