10/満月

Feb, 2009

やがて舞い立つツルが増えだしたので,ボクたちも話の種に,待ち伏せの名所であるK牧場に移動することにした.

Iサンクチュアリと音羽橋を結ぶ直線上に位置するK牧場は,さながら特設ステージの様相だった.続々と車が集まって来て,ツル撮りたちの交流の場にもなっているようだ.前日,牧場の外で夕焼けを一緒に撮ったグループもいた.

 

「寒かったろう.」

「ええ.でもコウシャクは面白がったですよ.」

ズラリと並んだ三脚はみなダミーである.ほとんどは三脚に超望遠を置いて場所を確保し,実際には別のカメラにズームレンズを装着して手持ちで使っている.さすがに少し鼻白んで,ボクたちは引いてしまった.


 

「もう,思い残すことない.満足.」

暫くして母が言ったのを潮に,夕日が樹間を赤く染める頃,ボクたちは車を出した.

「あ,あれ.」


低い山の端から満月がぽっかりと昇ってきた.「あれ」と言うのは,月を撮るから止めてという意味である.

「よし.」

湿原を見晴らせる国道脇に車を寄せた.K牧場の喧騒が嘘のような静けさだった.

「ここにツルが飛んで来ればねえ.」

と母がつぶやいたちょうどそのときだった.北の方で聞き馴染んだ甲高い声がしたかと思うと,月に青白く照らされた目の前の湿原をタンチョウの群れが横切って行った.母もボクも月を撮るために,カメラを手にしていたが,ぴくりとも動けぬまま,それを呆然と見送った.

「見た?」

「見た.」

「きっと,ツルたちがお別れに来たのよ.」

母は寒さにブルブルと身を震わせて助手席に乗り込んだ.

「オフクロ,オレ,もうちょっとだけ待ってみるわ.」

あまりに決定的なシーンに手が動かなかった悔しさから,ボクはスキーウエアを着て手をポケットに入れた.K牧場を出るときに,望遠のLレンズはカメラバッグの底にしまって,20Dには軽くて明るいタムロンのA09を付けていた.

それがまた油断だった.

再び北の森から声が響いた.キャノンとはレンズキャップの構造が違う.ズーム側に回す向きも逆だ.電源を入れながら月にレンズを振る.ファインダーに群れが入る.20Dが連写を開始する.A09がうなるように作動し無限遠に光る月を探す.

コンマ1秒,合焦が遅がった.

 

輪郭がはっきりしたとき,ツルは月を通り過ぎていた.

「しまったー!!」

ボクは月に吠えた.


助手席の母は一部始終に全く気づかなかった.それほど一瞬の出来事だったのだ.

「どうだい,釧路港の夜景でもやるか?」

昨日に続く失態に収まらないボクは釧路市内に入ったところで聞いた.が,母は

「それより早くホテルに行って,美味しいもの食べに繰り出そう!」

と,答えた.

 

無理もない.羽田空港で欠航の恐れがあったため,情報がすぐに入って椅子も確保できるカフェでホットドッグを食べたのが始まりだった.その後,ラーメン→カレー→ハムエッグ→カレーである.他ならぬここは食の王国北海道だ.母ならずとも,今夜のごちそうに期するものがある.


 

インターネットで予約しておいたホテルは釧路駅前にあった.何の気なしに,駐車場が無料で併設されているところを選んだのだが,ツインの部屋はやたらに立派で驚いた.


展望風呂から上がってきた母はきのうとは別人のように元気だった.てきぱきと衣類などを整理し,トランクを作っている.頭の中はカニとイクラのことでいっぱいだろう.

さて,どう切り出したものか.

ボクは今しがたフロントのお兄さんが紹介してくれた居酒屋の方に食指が動いていた.本当に地物を味わうつもりなら居酒屋に限る.

「オフクロ.残念ながら道が凍って危ないから,海鮮レストランのある繁華街までは歩けないな.」

…ということにして,ホテルのすぐ向かいにある居酒屋の暖簾をくぐった.カウンターだけの店内に,ひとり赤ら顔の先客はボクたちを見るなり嬉しそうに手招いた.

「こっち,こっち,ストーブのそばにすわんなさい.」

カウンターには割烹着の女性が三人.覚悟を決めた.

「こんばんはー.」

席に着いてメニューを見やる.


女将も先客もじっと謎の親子連れ観光客に注目している.母が「いくら丼あります?」なんて言い出すのではないかとひやひやしたが,雰囲気に呑まれておとなしくしている.最初の注文は大事だ.

「福司の吟醸を冷やで下さい.」

店内の空気が一気に和んだ.これでボクたちはこの店のお友だちである.前日,タンクくんに教わったこの地酒が地元の人に愛されていることは知っていた.

「それと母にはお刺身盛り合わせとご飯セットをお願いします.」

先客も破顔一笑,一気に場は盛り上がる.すかさず尋ねる.

「釧路と言ったら何でしょう.」

「そうねえ,まず…」

先客がメニューを見ながら薦めたものを,間髪入れずオーダーする.カニもイクラもなくて不満げだった母も,次々と出されるごちそうにすっかりご機嫌になった.

「教えて頂いたお礼にこちらにも福司を…」

と,ボクは冷酒を2本注文して先客にふるまった.先客は飛び上がって驚き,

「女将,じゃあ,そのベーコンはオレの勘定につけてくれ.」

と,自分の薦めた釧路名物鯨のベーコンを指差した.間に挟まって,勘定書きを手におろおろする女将も何だか楽しそうだ.

 

「それではお礼になりません.」

そもそもお酒よりベーコンの方が高いではないかと,やり合う二人ともすでに酔っ払い.


店の人が先客を「支配人」と呼ぶ.まさかと思って聞くと,果たしてボクたちのホテルの支配人だった.

「雇われ支配人ですよ.もしかしたら,ウチのお客さんかなあと思ってました.」

支配人が行きつけの店ならフロントで紹介するわけである.意気投合した支配人とは,夏にこの店での再会を約束して店を出た.


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