07/英雄

Aug, 2006
鄭成功

気温はピークに達している。50mほどの坂を上るのすらきつい。坂の上から振り返ると,途中の小さな木陰には,我が隊員があちらに一人,こちらに二人と喘ぎながら休んでいる。滝のような汗を拭うと,また数m先の木陰を目指してよろよろと歩く。傘寿を過ぎた父などはよく頑張っていると思う。音大の塀づたいに最後の坂を上ると,眼下に小さな岬が見えてきた。この行軍の目的地だ。

あの岬の突端に,鄭成功(ていせいこう)の像が立っているはずである。


鄭成功の銅像


海に向かって坂を少し下ったところに,記念館の入り口があった。今度は150円ほどの適正料金を払って入場し,庭園の丘を下ってゆくと,巨大な真っ白い像が後頭部から徐々に姿を現した。紺碧の海に向かって,今も民族の誇りを守るかのように屹立している。

昨夏,ボクとドレミが平戸を訪ねた日は,ちょうどお祭りの日で町には浴衣姿の娘さんがあちこちに歩いていた。


 

平戸(2005年)


平戸港は,江戸の初期,長崎に出島ができるまで南蛮貿易の窓口となっていたので,町にはオランダやの商館が立ち並び賑やかだった。その頃,平戸藩士田川家に平戸小町と噂された美しい娘がいた。名前はまつと言ったらしい。田川家は外国商館との交流もあり,外国の若者たちの間でもまつの美しさは評判だった。彼女の心を射止めたのは芝龍(しりゅう)という中国人の貿易商で,後に明の都督(海軍提督)になる。都督と言っても元は海賊大将だ。海賊の跋扈に困った明の政府が,当の海賊軍団の中でもっとも勢力の大きかった鄭家を懐柔して都督に任官し,南海の取り締まりに当たらせた。この時期の明王朝の衰退を象徴している。


平戸城(2005年)


その鄭家を率いたのが若き芝龍,漢民族独特の精悍さと配下に慕われる明るい性格を併せ持つ美丈夫だった。平戸小町を争う恋敵たちには相手が悪かったと言える。周囲の祝福と羨望の中で二人は結婚し,芝龍が新たに建築した欧風の商館に所帯を持った。


幸橋御門(2005年)


そして1624年,まつは男の子を出産する。芝龍の航海中,身の回りの世話をする女たちを連れて浜に貝拾いに出たとき俄かに産気付き,浜の岩陰で産み落としたと伝えられる。幼名福松,後に国姓爺(こくせんや)として活躍する明代最後のヒーロー鄭成功である。


平戸の浜(2005年)


江戸時代,大阪道頓堀の竹本座で,17ヶ月のロングラン公演を記録し,人気を博した近松門左衛門の浄瑠璃「国姓爺合戦」(のち国性爺と改題)は彼の活躍がモデルになっている。


国姓爺の足に腰掛けてさせてもらって一休み


平戸で育った福松は7才のとき,母を残して鄭一族の本拠地アモイへ旅立ち,再び故郷の土を踏むことはなかった。鄭家の跡取りとして抜群の学才を表し,名を森と改め南京大学に学ぶ。全国から英才たちが大学者銭謙益を慕って集った南京で,腐敗し滅びゆく明王朝への多分に感傷的で詩的な忠誠思想に感化されたことが彼の運命を大きく変えた。

清による侵略が本格化し,鄭家の海軍力と財力を頼って亡命してきた隆武帝朱聿鍵は,謁見した鄭森に自らの国姓(皇帝の姓)朱と成功の名を与える。朱姓は畏れ多いとして鄭成功を名乗った彼は,南京が陥落すると,清に投降した父芝龍を一族から追って,鄭家の総帥の座を襲い,明国再建の旗を挙げる。


北伐軍と思われる記念館のレリーフ



騎馬民族の清が苦手とする海戦に強く,その制海権を持って,極東貿易の利益を独占した鄭家は,清にとって最大の抵抗勢力となった。数年の準備を経て南京を清から奪還すべく大北伐軍を興すが,決戦に敗れて明再建の夢を儚くする。ちょっと規模は違うが,時流に抵抗した幕末の新撰組に似ているかもしれない。


決定的に違うのは,漢民族にとって清は北方の異民族だったことだ。清は服従した地域の男全員に,恭順の証として弁髪を強制した。頭頂部を残してつるつるに剃りあげる清民族独特のヘアスタイルである。頭髪を落とすときの屈辱は想像に難くない。民衆が他民族の侵略に敢然と立ち向かった鄭成功に抱いた思いはいかばかりだろう。人々は彼を国姓爺(皇帝の姓を与えられた旦那の意)と呼んで熱烈に支持した。漢民族の期待を一身に集め,明の復興を激烈に指向した彼が,遠く日本生まれのハーフだったことは感慨深い。


鹿耳門の奇跡

コロンス島の太陽はようやく西に傾き,岬の陰になった海岸に涼しい海風が吹き寄せてきた。ボクはみんなをその浜に残して,像の全景を見られるように岩場に作られた展望台に渡った。先客が二人,盛んに写真を撮っている。英語で話しかけると北京から来た女子大生だと分かった。夏休みを利用して,わざわざこの像を目指して来たという歴史通の彼女たちだったが,鄭成功の母親が日本人だということは知らなかった。ガイドブックや看板にも書いてないと言う。どうやら中国では,そのヘンのことは歴史から抹殺され始めているようだ。


波打ち際の展望台から見上げた鄭成功像


南京奪還に失敗した国姓爺は清の打倒を諦め,オランダに占領されていた台湾を奪還して独立自治を目指すことになる。

台湾という巨大な島は古来あまり人に利用されてはいなかったらしい。せいぜい,倭寇が明の沿岸を襲うときに中継地とした程度であった。それが大航海時代を迎えて東インド会社が中国北部から琉球,朝鮮半島,そして日本へと貿易の触手を延ばし始めて,にわかに重要な中継地となった。オランダは武力によってこの島を占領して周辺海域の利益を独占していた。これに対して国姓爺の準備は周到だった。根気よく台湾に住む漢民族に武力蜂起の根回しをし,援助を続ける一方,貿易による利益で軍備を養う。


コロンス島の漁船。
鄭軍団の軍船もこの程度の規模だったろう。



鄭軍団の軍律を引き締めて掌握するとともに,オランダ軍が軍使としてアモイに送った何斌(かひん)というかつての芝龍の部下を逆にスパイにして送り返し,オランダ軍の本拠地,台南安平港を測量していた。そしてついに1661年,電光石火に軍を発して台湾を襲った。強力な迎撃の布陣をしいていたオランダ総督のフレデリク・コイエットはその目を疑ったと言う。

水深が浅く,軍船が通行できるはずのない海峡を国姓爺の船団が次々と侵入して,手薄なプロビンシャ城を包囲したのだ。「鹿耳門の奇跡」と呼ばれる海戦は,鄭軍から見れば奇跡でも魔法でもなく,一年に一度しかない大潮の日を狙って綿密に練られた奇襲作戦だったのだ。


さらに台湾在住漢民族の武力蜂起が呼応して,火力で圧倒的だったオランダ軍は国姓爺に無条件降伏した。この勝利をもたらしたのは,明の再興を掲げ,北の侵入民族清と果敢に戦った国姓爺の信望だったろう。民衆は国姓爺に正義とカリスマを見て熱烈に彼の軍を支持したのだ。

だが,台湾を奪還し,再び「抗清復明」の旗を立てた翌年,鄭成功は病に倒れて死ぬ。平戸武士の血を受けて生まれ,最後まで大義に生きた39年の短い一生であった。さらにわずか20年後の1683年に孫の克爽が清軍に敗れて,鄭帝国は滅びる。

 



海沿いの遊歩道をたどっていくと,港が近づいてきた。対岸のアモイ港も泳いで渡れそうな距離にある。とうとう電気自動車を利用することなく,島を半周歩いてきたことになる。

「波の音が聞こえるよー」


日本語の売り口上に母とまちこさんが駆け寄った。代わる代わる大きな貝に耳を当てている。母と義母がこんなに仲がいいのは珍しい例だろう。ボクたち抜きでも一緒に旅行したりする。仲が良すぎるのも良し悪しで,我の強い母と,どこか常識はずれな言動の多い義母で,ときに喧嘩になることも少なくない。その度に息子と娘が板ばさみになって,それぞれの母親を窘めなければならないからだ。



島からの帰りは定期渡船に乗った。船と言っても大きな四角い部屋が僅かな距離を移動するだけだ。大きすぎて見られなかったが,外観も船のイメージとはずいぶんと違っていた気がする。室内も椅子はほとんどなく,大勢の乗客は何列もの吊り革につかまって立つ。



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