タローがその状況に立たされたのには,いくつかの条件が重なっていた。
まず,外から帰ると,玄関のタタキで待つようにしつけられていることだ。雑巾で足の裏を拭いてもらってから家に上がる。
次にボクたちの朝が遅いことだ。だからタローは目が覚めてもハウスで大人しく待っている。なおみが起きて洗顔し,身支度を終えてから,
「タロー,シュウ起こして」
と声をかけると,ようやくベッド脇まで来て,ぶんぶんと尻尾を振りながらおはよう攻撃するのが毎朝の風景なのである。
さて日曜の夜,となりのタエちゃんが下の子を連れておしゃべりに来た。待つ間,タローと遊んでいた子どもが「今夜はタローと一緒に寝たい」と言い始めた。
「じゃあ,悪いけど,鍵開けとくから明日の朝タエちゃんが出勤前に,タローを玄関に入れておいてよ。」
と,いうことでタローは急きょ隣りにお泊まりに行った。
翌朝,タエちゃんは早起きしてタローを散歩させてから,ボクたちを起こさないようそっと玄関にタローを入れておいてくれた。
ここでタローは困った。足を拭いてないから上がって行けない。朝早いのでボクたちを呼ぶわけにもいかない。
「寝てるしかないか。」
たぶん,そう考えたに違いない。ところがタローにとって不幸な誤解が数日前に起きていた。
大きな荷物を持った宅急便のお兄さんが訪ねてきたときのことだ。タローはお兄さんに遊んでもらいたくて,三和土に飛び降たが,当然「NO!」と,叱られた。がっかりしたタローはお兄さんの去ったドアにぴったりと体を寄せて寝そべった。すねポーズである。こうして一応,抗議の意思を表明するのだ。ところがなおみもボクも忙しくてそのパフォーマンスを見ていなかった。そのうち,うつらうつらして寝込んでしまったらしい。15分ほどたったところで,三和土で寝ているタローを見つけて思わず
「タロー!ダメじゃんか,そんなとこで寝てたら!」
と強い語気で言ってしまった。飛び起きたタローはどうやらこのとき「三和土で寝ると叱られる」と,誤解してしまったのだ。
さて,タエちゃんに送ってもらった朝のタローである。薄暗い玄関で進退極まり,寝て待とうと考えたが,三和土で寝ると叱られると思っている。あわれタローは,なおみに発見されるまで30分あまりそのまま立ち続けた。ときどき疲れると恐る恐る座っては,また立ち上がる…その様子を想像すると可笑しい。なおみが慌てて足を拭いてやると,何事もなかったようにぴょんと家に上がり,早速,ベッド脇に来て「お早う攻撃」を始めた。
犬って…。犬ってみんなこうなんだろうと思う。官権の犬とか幕府の犬とか盲従の例えによく使われるけれど間違いだ。こんな律儀さは,人を信頼しようという強い意思と主体性なしには有り得ない。もしタローに毒の入った餌を与えたとしても,一瞬怪訝そうにボクを見て,それから毒と知りつつぱくぱく食べるだろう。
日本の施設で去年殺処分された犬は10万頭だそうだ。しかもほとんどは薬殺より苦しい炭酸ガスで殺されるという。機械でガス室に追われて,窒息すると自動的に焼却炉に落とされ,粉砕された骨はゴミとして処分される。ガスが充満した部屋で,体に痙攣が始まっても,犬たちは「きっと人間が自分を救ってくれる」と信じていたことだろう。
生物である限り,誰でも他の命を奪わなければ生きていくことができない。しかし,この殺戮は明らかに文明社会の歪みだ。犬に限らず,弱者の犠牲から目をそむけることで守られている快適な社会生活。ボクもなおみもタローもここで生まれ,ここでしか生きることはできない。
ボクたちは幸福だが,それは弱者の犠牲から目をそむけることを前提にした幸福だ。