OUR DAYS2010年2010/6/29

東一局、アタマを対子落とししながら立直をかいくぐり、再び平和一盃口の聴牌に持ち込んだ。ボクは自分の打ち回しに満足しながら、1索を横向に河に置く。その瞬間

「あたりぃ」

父が節くれだった手で不器用に手牌を晒した。索子が11334567から4索を払っての即立直で、三面待ちの平和を捨ててまで双碰に構えている。

01

要するにボクは認知症患者の作った引っ掛け立直に打ち込んだことになる。

三面待ちに取れば高め八索で平和三色であるから常識外れの立直である。ボクの打った1索はたとえ阿佐田哲也でも止まらない。だが父は昔からこのようにセオリー無視の強引な立直で運を引き寄せていくような牌風を持っていた。ボクは2600点を支払いながら、久しぶりでボケる前の父に会ったような不思議な感覚を覚えた。人格が崩れてしまっているのに、脳の中には以前のままの性格を残す部分が確かにある。

そもそも麻雀をやってみたらどうだろうかと思いついたのはなおみである。ボクも母も父がルールを覚えているとは思ってもみなかった。

この朝も父は「水道管が破裂している!」と騒いで、家族中を5時前に起こした。しらべ荘の屋根には樋がない。八ケ岳の中腹にあって冬は雪に埋もれるからだ。少し多めに張り出した庇から直接屋根の雨水が落ちるのを見ているうちに、ふと水道管のトラブルと思い込んだのだろう、いくら母が説明しても納得しない。地中の水道管が破裂して水が吹き出していると言うのだ。それはデイサービスの迎えが来てようやく落ち着いた。

「デイって何するところだ。」
「いつ、戻って来るんだ。」

という毎回定番の質問の方が父にとって大事だったからだ。

そんなだから父に麻雀をする能力が残っているとは思わなかった。よしんばルールを覚えていたとしてもゲームをする意欲があるとは夢にも思わなかったのである。ところがなおみが

「お義父さん、夕飯の前に半荘しましょ。」

と言うと、

「3円か?5円か?」

と応えたのには驚いた。日曜大工も庭いじりも競馬も読書もぴたりとやめてしまって、食べること以外には一切の興味を示さない父が夕飯よりも麻雀を優先するとは意表を突かれた。もっとも父はこの嫁に対してだけは弱い。

「お義父さん、賭けはダメよ。おすもうさんもみんな叱られてるでしょ。」
「ふむ」

父はこれだけのやりとりで卓につき、危なっかしい手つきで牌を積んだ。そして開局直後にあのひっかけ立直をかけたのであった。その後の圧巻は混一色を母から上がったときだ。発を一鳴きしているとはいえ、待ちは変則4面張だった。

手役を作るのが苦手な父は負けてくると起死回生の一色手に走ることが多かった。つまり打ち手としてはかなり下手の部類だが、母やなおみが相手だと結構勝ったり負けたりいい勝負になって盛り上がる。もちろんボクは水準のやたらに低いこの家族麻雀が嫌いだったがよく付き合わされた。この日も結局、オーラスに立直七対子を自模ったなおみがトップ目だったボクを僅差で交わして勝った。まるで数年前にタイムスリップしたような一時間だった。

02

デッキで煙草を吸ってきた父の興味はもう夕食に移っている。ボクは父に話し始めた。

「オヤジ、明日、医者に呼ばれてるんだが…」
「あー!来なくていい!来なくていい!」

ほぼ駄々っ子の反応である。ボクがわざわざ東京から来て病院に行くからには、病状に深刻な変化が予想される。それを不安に感じているのだろう。

「もし人工透析が必要だと言われたらどうする?本人の意思として予め聞いておくよ。」
「そんなものはしない。余計なことはしないぞ。」
「週3回、病院で機械につながれる。それに塩分や水分も厳しく制限される。」
「やらないやらないやらない!」
「寿命が縮んでもか?」
「やらない」
「じゃあ、明日、もし聞かれたら、自分で医者にそう言えるか?」
「言う。」

父の病状でもっとも深刻なのは腎不全である。すでに健常者の15%しか機能していない。その上、糖尿病と高血圧、脳梗塞のリスクを下げるための投薬、前立腺肥大…それらが一斉に腎臓の負担を大きくしている。透析か死か、どちらかを選ばなければならない日は確実に近づいている。

03

翌日の尿検査の結果は医者に言わせれば「グレー」だった。透析がすぐに必要な数値ではないが、透析のためにシャントとよばれる血管の短絡路を作る手術に必要な体力は限界に近い。

数多くのウェブサイトで透析患者やその家族の体験談を読んだ。今、自分がその中にいることを改めて実感する。本人が透析を受ける意思のないことは伝えたが、激症で緊急搬送されたとき、しばしば患者の意思は翻る。

それは知っているし理解もできる。実際に死に直面したとき人の判断は変わる。緊急透析を受ければその後は透析を欠かすことができない。おそらく高齢の透析患者はほとんどそうして透析に入るのではないだろうか。

緊急搬送されてからのシャント手術は時間的にも体力的にも手遅れとなることが多い。従って「現在、透析を拒否している患者に透析のためのシャント術をする」ことがどうしても必要になる。

「どうでしょう、クレアチニン5mg/dlをシャント手術の目安にしませんか。」

医者の提案で中期的な治療方針が決まった。クレアチニンとはタンパク質の分解で生成する有害老廃物で5mg/dlは腎機能が回復不能の目安になっている。現在の父の状態では数ヶ月後にその数値になってもおかしくない。病状はそういう状態だということだ。 

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