「やだな、やだな。」
タローに抱きつきながら優しく語りかけていたなおみの声が夕べから少し変わってきた。自分に言うように、虚空に語るように、そしてボクに訴えるように…。
「やだな、やだな。」
抱えるようにベッドに連れてきて寝かせたが,ボクが目覚めるたびさめざめと顔中を涙で濡らしていた。そして朝はまだ暗いうちにベッドを抜け出し防寒着を着てタローを抱いていた。
「やだな、やだな、焼くのやだな。」
その気持ちは痛いほどわかる。彼女が抱きしめるのは12年間毎日ブラッシングしてきた体である。爪を切り、転ばぬよう肉球の間の毛をトリミングし続けた四肢、いつも薬を入れて丁寧に掃除していた愛らしい垂れ耳、健康に気を配り慈しみ続けた愛おしい子の体である。そして死んでしまってもなおその美しさに翳りがない。体に触れてその冷たさに慄かぬ限り、誰がこの体の息をしていないことに気づくだろうか。
「やだな、焼くのやだな。」
いつだったか休日の午後、シャンプーしてブローして輝くばかりのタローをうっとりと見ているなおみに冗談で「タローが死んだら剥製にしようか。」と言ったことがある。だからやだなには剥製にしないの?という問いかけも含まれている。だがたとえこの毛皮で作っても剥製はタローではない。細胞からクローンを作ってもタローは再生しない。そんなことはなおみだって重々分かっているのだ。
別れのときが来た。約束通り9時ちょうどに焼却炉を搭載したペット火葬専用の車が私道をバックしてくる音がした。なおみの肩がぎくりと震える。そしていざという段になって駄々っ子のように遺体に覆いかぶさってしまった。
「やだやだやだやだよー!!タロー,目を開けてよ。今なら間に合うよ。タロー,タロー,タロー!!」
ボクも泣きながらなおみをタローから引きはがした。
お骨になれば抱っこしてやれるよ。
タローが大きくなってからなおみの唯一の不満は抱っこしてやれなくなったことだった。遺体になった昨日も「抱っこしてやりたい」と泣き崩れていた。
ボクはタローを抱き上げた。また,なおみが抱きついてきたが,今度は一緒に運ぶためであった。
絶叫した。
数時間して,タローは寝ていた形のまま骨になって帰って来た。葬儀社の人が「闘病や投薬する前だったので骨もきれいに残っています。」と教えてくれた。ボクらはわあわあと泣きながら骨を拾った。喉仏のほかに小さな小さな爪の骨があった。爪は燃えてしまうが爪の骨は残るそうだ。ボクらは夢中でそれを探し10個ほども見つけた。
骨は大きな骨壺に納められ葬儀の車が帰って行った。なおみがキラキラ光る小さくてキレイな骨をいくつか骨壺に入れず手の中に隠したのを見ていた。後始末をしてタローのいた部屋に戻るとなおみがその骨をじっと見つめながら立っていた。顔中,水あめのように涙で濡れていた。嗚咽しながら切れ切れに言う。
「あたし食べるの。タロー食べるの。」
ボクは返事をする代わりに彼女の掌から別な一片を取って口に入れた。味はなく噛んでも粉っぽいだけだったが,飲み込むと体中に染みていくように広がり胸の痛みがすうっと楽になった。
タローの昇って行った空は明るい雲がたくさん浮いて哀しいほどに美しかった。