August 7th/2020

桜田門

三宅坂も赤坂も坂だった。

皇居前広場~幡ヶ谷 距離: 9.5km



22時30分,皇居前広場でジャイアントとともに車を下りる。皇居周辺は自転車道路がよく整備されている。二重橋前から歩道を走って桜田濠沿いを時計回りに走る。



前回の四谷編では5DにLレンズ2本と丸太のように大きなSLICKを背中に担いでいた。ドレミから「危ないから軽い三脚を買って欲しい」と言われていたが一眼の夜景撮りにこだわっていた。…無茶だった。あきらめてコンパクトな三脚を購入。カメラもミラーレスのX-E2にした。


桜田門

安政7(1860)年3月 桜田門外の変があった。彦根藩井伊家上屋敷から桜田門までは500メートル弱。今でも見通せる距離にある。井伊家の行列約60名に対して元水戸,薩摩藩士の襲撃者は16名。新選組のような訓練,統率された軍団とは違う。互いに剣の使い手が多かったとしても,実戦経験のない言わば素人同士がいきなり防具なしの真剣で白昼斬り合ったことになる。戦いは凄惨を極め重傷者が続出した。襲撃側1名が闘死、4名が重傷を負って自刃、逃亡した11名も厳しい探索に自訴或いは捕縛されて10名が処刑された。井伊家は直弼以下9名が死亡,負傷者は5名。2年後,藩の処断によって重傷者は追放など,軽症者は切腹,無傷者は斬首された。そして時代の機微の中でこのテロは世論の支持を得た。

徳川250年の権威が崩れた。

変の現場。左は警視庁,正面奥が国会,その手前の交差点付近に井伊家上屋敷があった。

さてこの道を帰路に就く。タイヘンな坂道である。小説にも映画にもここが坂であることは描かれていない。毎日車で通っていても坂を感じたことがなかった。

ギアを軽くして青息吐息ようやく国会前まで登りきると行く手の坂道の勾配はますます急になっている。

三宅坂である。

246が甲州街道に合流し,地下では首都高4号線が環状線から分かれる交通の要衝である。ドライバーにはおなじみの地名が「坂」であることを意識した人がどれだけいるだろうか。そう考えながらひたすらジャイアントのペダルを漕いだ。三宅坂から西に折れて246(青山通り)を行く。内堀通りは半蔵門に向かってさらに上り坂である。これまで東京に半世紀住んでいるが皇居は平坦な場所にあるとばかり思いこんでいた。実は武蔵野砂礫層台地東端の斜面である。きっと上野山や飛鳥山はその名の通り山なのだろう。

246に入って暫くだらだらの上り坂が続いた後は一転下り坂になる。その名も溜池である。もう…

た・め・い・けー!!

…である。すり鉢状の窪地だから池が溜まるのである。オーバーパスは窪地を渡っていくが自転車は侵入できない。交差点に向かってすり鉢を下りていくしかない。下りたら登らねばならない。行く手の地名は「赤坂」である。


赤坂登頂に成功した。腿が萎える感覚を味わった。キラー通りから代々木駅方面に向かう予定だったが渋谷に向かって246がまた少し下っているのにおじけづいた。



北に向かって平らなので絵画館前を右折した。



霞ヶ丘の競技場が見えてきた。予定通りオリンピックが開催されていれば,今夜は夜遅くまで陸上競技の決勝が目白押し。今頃はカクテル光線の中でアスリートが躍動しスタジアムは満員の観客であふれていたことだろう。


小学生のとき区の陸上記録会で1000メートルの選手に選ばれた。本選は補欠になって出走できなかったがウォーミングアップで国立競技場のトラックを走ったことがある。ボクの唯一のスポーツ自慢だったがあのときのコクリツは今はもうない。体育の日はどうなるのだろう。


人気のないJR千駄ヶ谷駅に新型コロナウイルス感染予防を促す構内放送が流れていた。残業を終えたOLがひとり足早に改札を入って行った。


ボクの行く手にもまだ代々木のアップダウンが待っている。

「どうも12時までに帰るのは難しそうだ。」

ドレミにLINEを打った。もしも途中でギブアップしたり転んだりしたときのために風呂にも入らず待機しているはずだ。もう寄り道せずにまっすぐ帰ろう。カメラをリュックにしまってペダルを強く踏み込んだ。