September 8th/2020

将門塚

平安時代の海岸線を想う。

大手町~幡ヶ谷 距離: 9.41km



大手町でジャイアントオフ。猛暑に加え腰の具合が悪く夏休み以来のツーリングとなる。


将門塚

東京都千代田区大手町一丁目,商社や銀行の本社がひしめく大手町の一角,三井物産本社の敷地にめりこむようにそれはある。940(天慶3)年,平将門は朝廷の鎮圧軍に下総で敗れた。首級は京都に送られ七条河原で晒されても尚生きて,再戦を喚き立てたという。やがて胴を求めて夜空に飛んだ。その首がここに落ちたという伝説の地である。


少なくとも将門塚は二度取り壊しに遭った。

関東大震災で全焼した大蔵省の仮庁舎が建てられたときは大蔵大臣を含む関係者14人が亡くなった。その後も病人が相次ぎ,供養のために首塚が再建された 戦後にはGHQが取り壊そうとしたが重機が横転して運転手が亡くなったために工事は中止された。



畏るべし,将門公の祟り。

だが不審死や事故は事実としても,首塚の根拠となる起源は史実とは言い難い。京都から東京まで首が空を飛んで来ることはありえない。

しかし火のないところに煙は立たずと言う。


こんなストーリーを考えてみたがどうだろう。

重税と京都から派遣される官僚の腐敗に苦しむ関東で将門は人気があった。将門以前に日本には馘首という習慣はなかったらしい。朝廷の将門に対する憎悪の激しさを物語る。当然その仕打ちに不満を持ち,京都から首を奪取した残党があったとしても不思議ではない。残党たちは常陸国坂東を目指したはずだ。坂東の延命院には将門の胴が埋葬されていた。首が胴を慕ったという伝説の正体はここから生まれた。ではなぜ首塚は東京にあるのだろう。

平安時代の大手町は日本の中心ではない。そもそも江戸城もないので大手町でもない。追っ手を避けながら首を抱えて京都から東海道を来た一党は相模から丸子で多摩川を渡り大井経由,あるいは渡船を避けて府中経由で江戸に差し掛かったと思われる。日比谷入江と呼ばれる当時の海岸線を北上すると湾のいちばん奥まった地点が現在の大手町にあたる。


ここより東は徒歩では進めない葦の湿地帯である。北の下総方面は将門の本拠地だが事件を受けて取り締まりが強化されていたことは想像に難くない。万事窮した一党は海を見下ろす丘を将門の首の埋葬地に選んだ。坂東まで直線距離であと45kmの人里離れた辺鄙な地だった。



三脚を片付けていると木がざわりと揺れた。空がごうと鳴るほどの風が立ち赤い旗がばたばたとはためいた。朝鮮半島に上陸した台風10号に向けた突風であろう。



今夜は内堀通りを反時計回りに帰路に就く。246のアップダウンは先日懲りたので甲州街道を行く腹である。竹橋を過ぎると上り坂となった。想定内である。



次いで千鳥ヶ淵に上る。皇居北西の角にあたる千鳥ヶ淵付近が最も標高が高いだろうと予測していたが,南に向かってさらに上り坂である。



どうやら江戸城で一番高いのは半蔵門であった。真南に坂を上る義理はないので勘を頼りに麹町までショートカットして甲州街道に出た。


新宿駅新南口でドレミにLINEを書いた。家まではまだ15分ほどもかかろうか。