September 10th/2020

江古田古戦場

江古田~幡ヶ谷 距離: 7.21km



今夜はここ,中野区にある江古田氷川神社から夜旅を始めたい。


文明8(1476)年4月13日,扇谷上杉氏家宰江戸城主太田道灌はこの地に本陣を布き,長尾景春に加担して山内上杉に叛旗を翻した石神井城主豊島泰経軍と対峙した。道灌が氷川神社に戦勝祈願したという伝説が残る一方,江古田氏ら地元の豪族は豊島方だったという説もある。だが実際に訪れてみれば,局地戦術の天才だった道灌が地形的にここに布陣したのは確かなことだろうと知れる。氷川神社は寺山台地と呼ばれる小山の南麓にあり決戦場となった江古田,沼袋原を一望できる。戦いは広く小規模戦闘が散らばる形だったようだ。リアルタイムで経過を把握できるこの丘を押さえたときにすでに勝敗は決していただろう。


ドレミはカーナビに騙されて西に向かい環七を帰ったらしい。工事渋滞に巻き込まれてタイヘンだったそうである。ボクは少し暑さの和らいだ夜を新青梅街道まで下った。江古田の戦いの主戦場である。


道灌はこの日,泰経の弟豊島泰明の居城練馬城を全面攻撃すると見せかけ,江古田,沼袋一帯に伏兵を潜ませて泰経軍を待ち伏せした。おそらく石神井城を出た泰経が直接練馬城の援護に向かわず留守になった江戸城を衝くことを読んでいたのだろう。

江古田古戦場の碑…の横で道灌ポーズを決めたつもりがシャッターを5秒に設定したことを失念していて亡霊が写ってしまった。

さて道灌軍。伏兵を散らしていたので道灌自身の本軍は僅か50騎あまりだったとも伝えられる。その精鋭軍が寺山の麓から野に駆け下りては次々と敵を崩した。豊島軍では練馬城主豊島泰明他数十名が討ち取られ,板橋,赤塚隊150余名が壊滅したとされる。碑の写真に亡霊が写っても不思議ではない。


中野通りと新青梅街道のT字路(哲学堂の下)

この付近を中心に豊島方の戦死者を弔った豊島塚が多く残っていて最激戦地だったことを物語る。だが今は住宅街の中で深夜に塚を訪ねるのは難しい。

中野通りを南に向かって帰路に就く。


西武池袋線の踏切。向かって右手(西)に沼袋駅がある。戦場はこの付近にまで及んでいたため江古田・沼袋原の戦いとも呼ばれている。太田道灌の完勝は豊島氏の裏切りで南関東の諸氏が長尾景春の謀反に加担する流れを止めたことで乱全体のターニングポイントとなり,ひいては享徳の乱の帰趨にも大きな影響を与えた。


中野サンプラザが見えてきた。2年後の解体が決まっている。ボクが狭窄症の手術を受けた日大板橋病院へは中野通りを通る。今年の年初まで3年近く毎月車でこの道を通った。中野駅から哲学堂まで見事な桜並木が続く。愛犬を連れて夜桜見物に来たこともある。さまざまな思いが去来する。



JR中野駅。

実は2日前,大手町の将門塚を訪ねての帰り道は久しぶりだったこともあって腰や背中にかなりのダメージを覚えた。自転車禁止を恐れてドレミにはナイショにしていた。



今夜の起点に江古田を選んだのは距離が短いこともあるが位置的に帰路が下り坂になると目論んでのことだった。



ところが中野を過ぎた頃から上り坂になった。「十貫坂上」というバス停が青梅街道のあたりにあるのを思い出した。青梅街道を内藤新宿から見ての坂上だろうが中野からも坂上だった。まさかの上り坂。中野は中の野であったことか。

そう言えばかかりつけの整形外科はこの先の南台だった。南?…「南」と言うことはやはり青梅街道側から見て南の「台」なのだろうか。予感は当たった。坂上から台に向かって上り坂が続く。

南台を過ぎてなぜかさらに上り坂だった。中野通りの終点は笹塚…「台」より「塚」が高いのかー!!おまけに幡ヶ谷は「谷」なのに中野通りからは上り坂である。

東から南東からそして北からも上り坂…どうやら我が家はかなり標高の高いところにあるようだ。



中野通りから最後の坂を上ると東の空高く下弦過ぎの22日月が浮かんでいた。今夜もまた日が変わってしまったようだ。LINEし損ねたので家ではドレミが心配していることだろう。