October 1st/2020

面影橋

面影橋~幡ヶ谷 距離: 7.7km



風に誘われ面影橋を訪ねた。


ちょうど電停に最終間近の都営荒川線が停車した。数人の乗客を降ろし静かに早稲田方面に去って行く電車を見送ってから神田川を渡る。今夜はボクだけが降りるのではなく夜間100円/hのパーキングを見つけて車を停めた。屋根から下ろしたジャイアントを引き,ドレミと二人で静まり返った路地を公園まで歩く。


空高く中秋の名月がかかる。今宵は我が家恒例のお月見,タローのいない三度目のお月見である。寂しさは否めないがさすがに不在に慣れた。


和笛の音が聞こえてきた。いずこか近くに名月を愛でて篠笛の合奏をする風雅な家のあるらしい。色づき始めた桜の葉の間から月の光が落ちてくる。


ドレミがかばんから出してきたのは五の橋の菓子舗で昼のうちに購っておいた団子。月明りの下でそれをほおばる静かな観月の宴である。

 



宴がはねてドレミは車で先に帰る。腰痛チャリダーシュウの夜旅が始まる。

月見をしたこの公園の名を「山吹の里公園」という。


七重八重花は咲けども
山吹の実のひとつだになきぞ悲しき(あやしき)

中務卿兼明親王
(後拾遺集/平安時代)


文明の頃(室町時代後期)江戸城主太田道灌は鷹狩りに出てにわか雨に遭う。蓑を借りに寄った農家の娘に,雨具ではなく山吹の小枝を渡されたため憤然として帰城する。歌学に通じた家臣がこの話を聞き,娘は中務卿兼明親王の古歌を踏まえ,貧乏でお貸しできる蓑のないことを山吹の枝に託して告げたのだと諭す。道灌は無学を恥じて以後和歌の勉強に励んだ。

この山吹伝説の地には諸説があり,公園の名になるほどだから面影橋周辺も有力な候補地のひとつである。

面影橋の上から神田川上流を臨む。15世紀には山野が広がっていたであろう。晩春に江戸城から鷹狩りに来るには確かにふさわしい場所である。

もうひとつの有力候補地は埼玉県越生町。越生町は道灌の故郷で父太田道真の隠居所跡や父子の再建した寺が現存している。娘の農家を再現した山吹の里歴史公園には3000株の山吹が植えられているという。


こなた面影橋。北詰にあるマンション工事現場の鉄塀が半坪ほど凹んでいる場所に山吹の里碑がぽつんとある。越生町に比べていささか分が悪い。碑には観音像が彫られ碑文の下に文字がたくさん書いてある。説明板には貞享3年に建立された供養塔を転用したとあるがどう見ても墓石の再利用である。石は江戸時代のものだとしても碑文のフォントは昭和初期っぽい。


山吹伝説はボクが子どもの頃には小学校の道徳の副教材になっていて東京の子はみな習った。いつの頃からかと言えば江戸時代に遡る。出典は湯浅常山の常山紀談。

常山紀談巻之一/太田持資歌道に志す事
太田左衛門大夫持資は上杉定正の長臣なり。鷹狩に出て雨に逢ひ、ある小屋に入りて蓑を借らんといふに、若き女の何とも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出しければ、「花を求むるにあらず」とて怒りて帰りしに、これを聞きし人の、「それは七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しきといふ古歌のこゝろなるべし」といふ。持資驚きてそれより歌に心を寄せけり。

江戸時代から勉学奨励の説話として人気を博したようで,日本画,浮世絵,落語になった。

題太田道灌借蓑図(絵に添えられた七言絶句)
孤鞍衝雨叩茅茨
少女爲遺花一枝
少女不言花不語
英雄心緒亂如絲

なぜ貧しい農家の少女が平安の古歌に通じていたのか。小学校の道徳の授業中,ボクは子ども心に不審を抱いたが先生に質問する勇気はなかった。誰もがうすうす感じている通り道灌の山吹伝説は江戸時代の創作であろう。すると山吹の里の地は中務卿兼明親王の居宅京都嵯峨野の小倉ということになる。そして山吹の小枝を客に渡したのは美しい少女ではなく落ちぶれ貴族のおじさん…いやいやダメでしょう。やっぱり山吹の小枝に思いを託すのは美少女にこそふさわしい。

一重のヤマブキは実をつけるが日本人に好まれてきたヤエヤマブキはおしべが花びらに変化した花で,めしべは退化してしまって実をつけない。万葉集にも「花咲きて実はならねども長き日に思ほゆるかも山吹の花」とあるようにそれは奈良時代にはすでに知られていたようだ。


帰路につく。秋の夜風は肌に心地よく,酔ってしまうほど甘くかぐわしいキンモクセイの香りに包まれて快適なツーリングとなった。



明治通りを一気に南下し,アップダウンを避けて青梅街道から副都心に抜けた。



花園神社



歌舞伎町の入口



時節柄,新宿副都心はもう真っ暗だった。

落語道灌のオチでは八五郎に「歌道に昏い」と言われた男が

「カド(街角/歌道)が暗ぇから(雨具ではなく)提灯借りに来た」

と答える。