October 26th/2020

兎平(うさぎだいら)を侮るな~日立ツーリング

東海~日立 距離: 23.2km



仮眠していた常磐道のSAから朝4時に起きて大洗に移動する。



他でもない,常陸に行ったら太平洋に立つ鳥居を撮ってみたいと思っていた。今回の常陸行きは2日前に突然決まった。


元教え子のM奈に会いに日立まで行く。

ボクたち二人を除くと愛犬タローを最もかわいがったのは初代タロー係のM奈である。

タローが死んだときは会社を早退して駆けつけ,亡骸にすがってわあわあ泣いた。その数か月後に結婚して日立へ引っ越した。


東京を発つ前に新郎とともに楽器持参で教室を訪ねてきた。ボクらのためだけに披露宴を出前してくれた。

あれから2年半が経った。


「先生たち,月曜日に時間ありませんか?わたし休みなのでスマホのリモートでお話しませんか。」

M奈からLINEが入った。月曜休日のボクたちはどこかサイクリングに出る予定だった。サイクリングの行き先が決まった。

「M奈に会いに日立に行く。ランチしよう。」


ボクたちが大洗磯前神社の鳥居に着いたときは暗闇にカメラマンが二人三脚を立てているだけだった。それが夢中で撮影する間にか周辺の宿から起き出してきた観光客で密になっていた。



やばい,こんなことになるとは思わずにマスクしてない。



急ぎ撤収である。人はますます増えてきたが朝焼けは終わった。


さあ,ツーリングに出かけよう。M奈が待っている。

ドレミと二人の小さな旅が楽しすぎてタローといっしょに日本中を旅した記憶が薄れ始めた。それはきっといいことなんだろうと思う。


今回は常磐線の東海駅前をスタート地点に選んだ。仕事の手筈はドレミの主導だが,旅の計画はすべてボクが立てる。



東海駅西口にできたばかりの駐車場を見つけた。グーグルマップのストリートビューではまだ雑木林の空き地になっている。駅周辺も住宅地として急速に発展しているようだ。



原発は首長と国と電力会社の思惑によって半ば強引に地方の小さな町に建設される。そして住民たちに決定的な分断をもたらす。反対派の人びとこそ不憫である。おそらくは全く予期していなかった隣人との対立と反対運動の中に人生を送ることになるからだ。



電力を大量消費するだけの都市に生まれた者も期せずしてその悲劇の原因に責を負っている。ことに東海村は科学技術を信奉して育った鉄腕アトム世代のボクにとって特別である。


信じられないような不注意によって東海原発で起こった臨界事故や被爆事故は,人間が核をコントロールすることは現状不可能だという無念の事実を世界中に知らしめた。

鉄腕アトムのアトムとは言わずと知れた原子のこと,愛らしい妹の名はウランちゃん…あの頃,確かに原子力の平和利用は明るい未来の象徴だった。しかし人類のメンタルは核を制御するまでに成熟してはいない。

それでも来年40年の運転期限を迎える東海第二原発は2022年12月からの再稼働に向けて準備中である。今年8月の茨城県知事選挙でNHKが行った出口調査では再稼働に賛成は24%、反対と答えた人は76%だった(NHK解説委員HPより)。東京ではどうだろう。五分五分か…いや,おそらく反対する人は3割に満たないだろう。東京や大阪に住む人たちには原発も米軍基地も遠い他所事になっている。


日本原子力発電株式会社の入口に立つ看板は「げんでん」手をふるマスコットはテラちゃんとゲンくんである。残念ながら見学施設テラパークは月曜休館だった。



東海村を後にして北へ向かうと間もなく久慈川を渡る。



国道245号久慈大橋。



快晴の空,北関東の予報は夏日。川面(かわも)を渡る風は心地よい。


ところで茨城の海岸と言うと鹿島灘を連想する。南の九十九里と合わせて利根川の作る巨大な三角州になだらかな海岸線が続く。だがそれは久慈川までの地形だと知った。地図を見ても福島に向けて海岸線はしだいに凹凸が多くなっている。国道は浦では低いところを這い,岬ではなだらかにその丘を越えて走る。


海岸沿いならば平坦な道に違いないと思っていた予測が大きく外れて強いアップダウンが続く。



まいったー。



日立灯台

ゴールデンが遊んでいた。



展望台で太平洋の眺望よりも地図に見入っている。海沿いらくらくツーリングの予定がまさかのアップダウン過酷路になりいささかあせっているためだ。



来し方はるかに原子炉の建屋が見える。福島第一原発の事故が起こるまではタテヤということばも知らなかった。



小高い丘を登り泉神社を訪ねる。



境内の湧水は奈良時代初期の713(和銅6)年 に編纂された常陸国風土記に「密筑の里の大井」として既に記されているらしい(未確認)。



史跡の乏しい日立でほとんど唯一歴史ロマンを感じさせてくれる場所である。平日の朝には訪れる人もいない。まわりは住宅街になっているが,まるでこの場所だけが古代にあるかのような静寂に包まれている。



M奈とLINEで連絡を取った。先を急がねばならない。



日立市内に入っても国道245号のアップダウンは続く。これはたまらん。

灯台の展望台で地図を見ながら考えた作戦その2にスイッチすることを決断した。

高台にさしかかったタイミングで日立の中心街に向かう245号を離れ,高台を並行する6号まで登ってしまう。



M奈の住むところは日立駅の北西で6号より高い場所にある。どうせアップダウンならここで一気に平均高度上げる作戦である。



この判断が決定的にまずかった。

6号線が日立中心街に入る手前に兎平がある。柔らかな印象の地名とは裏腹にほぼ小山であった。その標高は高く,日立駅とM奈宅の落差の比ではなかった。



兎平越えはこたえた。サイクリングを始めて以来,初めて「足にくる」という経験をした。



日立市役所前,M奈の家は近い。今回のツーリングは苦戦だった。



M奈は外の道路まで出て長いことボクらを待っていてくれた。

お互いにマスクのせいだろうか,それとも自転車で息があがっていたからだろうか,再会は少々ぎごちなかった。



M奈のご主人は日立の技術系の職員である。二人の住む社宅は市営住宅のように地味な外見だが内部は高級マンションの体だった。窓からは常磐灘が一望できる。やせっぽちで理系の文学女子だったM奈はちょっぴり恰幅の良い奥さまになっていた。



まだお昼には時間があったので先に車を取りに行くことになり,M奈が日立駅まで送ってくれた。



中学生のときはバレーボールを顔で受けていたM奈がアクアを鮮やかに操る。



中学生のとき


日立駅はまるで空港のように立派だった。



PASMOが使える。



11時19発の上り普通列車にギリギリ間に合った。



ドレミを残し,ボクはひとりで東海に向かう車中の人となった。



美しく輝く太平洋が見え隠れする。



15分間の鉄旅。



東海からの帰り道はとくに渋滞したわけではないのに時間がかかった。

「ロッコクはいつもそうだよ。」

M奈は国道6号を「ロッコク」と呼ぶ。すっかり地元に馴染んでいる。



家に戻ると,M奈がおもてなしの手料理が仕上げに入っていた。



「今年ね,泉神社の方で売り出されていた家を買ったの。」

え?

M奈が作ったパンが焼きあがった。


「それでね,GWに二人でリフォームして今は人に貸してるの。」

ええー!?

「YouTubeの動画を見ながらホームセンターで工具や材料を揃えて床を張るところから自分たちでやったから業者さんに頼んだら300万円くらいかかるところが200万円で仕上がったんだよ,すごいでしょ。ウチの物件がいちばん内装がいいって仲介の不動産屋さんにほめられちゃった。おかげで連休が全部つぶれたけどね。」

ええええー!?


ラザニアも焼きあがった。

うまい!!

…と褒めるたび,M奈が「やった」と小さくガッツポーズする。



「今度暫く関西に転勤になるから向こうでも家を買ってこっちに帰るときにはまた人に貸してこようと思っているんだ。」

…あ,そう(;^_^Aすごいね。



ガトーショコラもボクたちのためにM奈がゆうべから仕込んでいた。


ボクとドレミがM奈くらいの年の頃を思い出した。ボクたちは起業して自分たちの会社を作った。意気揚々と怖いものなどなかった。だがM奈たちには負けた。世代交代を実感した。


渋滞する前に東京に帰りたい。暇乞いをして駐車場に下りた。M奈の話に圧倒されてぎごちない感覚が最後までぬぐえないままになった。M奈もそう感じていただろう。自転車を車に積んで車の向きを変えた。そのとき…。


見送っていたM奈が急に手を振りながらぴょんぴょんとジャンプし始めた。目をきらきらさせた少女のM奈だった。ボクは思わず窓を開けて「M奈ー!!」と叫びたかったが大人なので自重した。軽く手を挙げてアクセルを当て1速に入れたオーリスを急発進させた。

二人で自由に楽しく仕事をし,ゴールデンレトリバーを従えていたボクたち。おそらくM奈がその姿にあこがれていた時期もあったろう。今ではすっかり追い抜かれてしまった。藍より青く,それはとても心地よい敗北感だった。だがこのまま負けているつもりはない。今度は彼らが羨むような老後を創ってやる。2000万円は持っていないけれど…。


ひとつ先のインターチェンジまで「ロッコク」を南下した。セイコーマートに寄るためだ。苫小牧と大洗を結ぶ定期船を利用して物流が通じている。茨城には北海道と同じ商品を揃えたセイコーマートが支店を展開している。



セイコーマートにはタローと何度も旅した北海道の記憶が染みついている。 ボクたちはきっと北海道そのものではなく,あの頃を懐かしんでいるのだろう。



4時前には東京に入ったが中央環状線の西新宿で激しい渋滞に巻き込まれた。