気づいたのは正月3日のことだった。絵筆の先がよく見えない。左目の視野の中央部に濃い影があった。そう言えば暮れからずっと見え方がおかしいと感じていた。一昨年反対の目に網膜剥離を起こした恐怖が蘇える。午前中休みを取っておなじみ早稲田の女医さんを受診した。入試直前のしかも講習中。また緊急手術になったらどうしよう。
「常に連絡をたやさないでね。」
そう言ってなおみは先に出勤して行った。マリコが来てくれていて助かった。1日くらいならボクの代わりが務まるだろう。
医院は正月休み明けでタイヘンな混雑だった。
果たしてボクの眼球は激しく出血していた。特に毛細血管から遠い中央部は黒くなるほど血が溜まっている。これが視野を覆った影だった。
「高血圧って言われたことある?」
ありません。
「心房細動とかは?」
ありません。
「じゃあ最近心臓に大きなストレスがかかったことはない?」
それは…たくさん心当たりがあります。早鐘のようにどきどきしたり,ぐりんと動きが鈍ったり,きゅーっとしめつけられたり…
心臓に負荷がかかって起きた不整脈が血栓を作り網膜の血管を詰まらせた可能性が高いと信頼する女医は原因を分析した。血栓が脳に飛んでいたら脳梗塞だったと脅された。
医院を出て心配しているなおみと母にLINEした。歩き出すとますます血の影は大きくなっていた。そう言えばよく車に乗っているとき,後ろからタローが運転席と助手席の間に割って入り乗り出したものだ。
タロー,見えないぞ!!
ボクは左手でタローを押しやる仕草をした。片目が見えなくてもタローにいてほしい。