OUR DAYS 2021年2021/04/12

日大板橋病院の学長だったボクの主治医は去年の2月に退任した。

「私はもうキミを診てあげることができなくなってしまったよ。」

そう言って新宿の専門病院で診療している元教え子に紹介状を書いてくれた。その病院に行こうとした矢先にコロナの猛威が始まった。鎮痛剤は余分にもらっていたし,ホントに痛いとき以外はがまんすることにして通院開始を延期した。

夏には「15分立っていられない。」と言っていたのが秋には10分になり,暮れからは5分が限界となった。冬の痛みに鎮痛剤も使い尽くした。感染リスクを負っても病院に行くしかない。1年有余ぶりに病院に電話すると大先生の教え子先生はもういなかった。いないというより患者が激減していられなくなったらしい。コロナ患者を受け入れている病院だけでなく,こうした命に関わらない病気の専門医院も東京では経営が成り立たなくなっている。インターネットで検索すると豊岡の病院にいらした。兵庫県ではいくらなんでもムリだ…と思ったら埼玉県にも豊岡があった。

「ちょっと埼玉までドライブしたいって言うんなら一緒に連れて行ってやってもいいよ。」

さすがになおみが苦笑した。貴重な休みに洗濯ものがたまっているから行かないと答える。

「紹介状,CTのディスクとおくすり手帳,おやつも入れとくね。お財布にカードと保険証入ってるか確かめといてよ。」

…とかばんを渡されて,久しぶりに一人で出かけることになった。関越道を北北西に走る。

高速を下りて持ち物を確かめようとかばんを開けるとなおみの入れたおやつ箱が出て来た。すみっコの箱は人に見られると少々きまり悪い。ヨックモックととっておきのしるこサンドが入っていた。

治癒に至る治療を期待して通院を決めたわけではない。鎮痛剤が必要なのと,もうひとつは将来に不安を覚えたからだ。このペースでは来年には腰が曲がり,やがて立てなくなるかもしれない。すでに電車に乗れない,ちょっとした窓口の列に並べないなど社会生活に支障が出始めている。それでいて外見はとても健康そうなので優先席を使うことは憚られる。ここは専門家に相談して身体障害認定の道を模索すべきかと思ったのだ。

初診の受付はスムースに終わり,紹介状の病院名が違うことも理解をもらえた。CDの引継ぎデータも数分でコピーが終わったそうだが,おくすり手帳を書き写していた看護婦さんが不思議そうに眉をひそめた。

「ホントにこのお薬を飲んでらっしゃるのですか?」
「ええ,まあ。毎日ではありませんが,痛むときには…」
「でも…」
「?」
「これ,婦人科のお薬ですけど。」

え?

そう言われればボクのおくすり手帳はすみっコでなおみの手帳がじんべえさんだった。もちろんどちらもボクが選んだのではない。

教え子先生の人柄はそこそこよく話もよく聞いてくれた。腕もよさそうである。そして新たに撮ったレントゲンと手術後,3年後の写真を見比べて言った。

「脊柱管にも神経にも異常はありません。」

えええ!?

手術で埋めた金属やボルトは正常に脊柱管を支え,神経のまわりも確保されているという診断だった。そう考えると実は密かに疑っていた大先生の診断も正しかったことになる。大先生の診察はいつも,

「どうですか。ワンちゃんを亡くしたショックはまだ続いていますか。」

で始まり,

「ペットロス」「心的ストレス」「術後経過良好」

と電子カルテに書き込んで終わっていた。それでは手術直後からの直立できないほどの痛みは何が原因なのだろう。

「筋肉の損傷です。」

教え子先生は事もなげに言った。手術時の切開による筋肉の損傷が大きかったのだろうと推測している。脊柱管を傷めたときと同じく,ボクはジムのマシーンなどでその損傷を悪化させた可能性がある。術後には異常のなかった背骨が今日の写真ではカーブしたまま固まりはじめている。

「このままでは来年には腰が曲がって伸びなくなります。」

そう言って,大先生がくれたのと同じ「腰痛体操」のコピーをくれた。鎮痛剤もボクの言うままに処方してくれた。

骨や神経に異常がない。筋肉ならば回復の可能性があるではないか。ボクの心はとても明るくなった。不安が解消され,痛みの質まで変わって感じられる。専門家の診察とはそういうものだ。大先生が術後の三年間ずっと続けていた診療もそういうことだったのかもしれない。もっとも希望がいくら沸いても立っていることのできないほどの痛みは変わらない。

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