26/越生

10.5km


March 1st/2021


稀郭公(ほととぎす稀なり)
縦有千声尚合稀(たとえ千声ありと云えども尚合ふは稀なり)
況今一度隔枝飛(いわんや今一度枝を隔てて飛ぶをや)
誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
細雨山中聴末帰(細雨山中にきいて未だ帰らず)
万里集九/梅花無尽蔵より

越生(おごせ)と読む。この地名を知ったのは昨秋,早稲田の「やまぶきの里」を訪ねたときのことだった(→面影橋)。山吹の里伝説の地はいくつかあって越生町はその有力候補地のひとつである。調べてみると梅の名所とのこと,どうせなら美しい季節に訪ねようと春を待っていた。関東三大梅林に数えられるそうだが聞いたことがない。たいしたことはないだろうと高を括っていたらこれが驚きの壮観だった。関東どころか日本一の梅林かと思われる。偕楽園や熱海梅園のような敷地内の庭園ではなく越辺川西岸の盆地一帯が梅の花に埋まっていた。今回はその梅の香りの中に太田道灌ゆかりの地を訪ねるツーリングである。


出掛ける前夜にジャイアントの変速機に異常が見つかった。あきらかに先日転んだのが原因である。反対向きに倒れたので,外見ではスプロケットにダメージは見られないのだが反応が遅く,ギア比の高い二段ほどが入らない。ボクでは全く手に負えない。仕方ないのでこのまま越生行きを強行することにした。



東京を8時前に出て関越道から9時過ぎには山吹の里公園に着いた。



面影橋と同じく根拠は全くなさそうである。史跡とするのは無理がある。



「太田道灌を大河ドラマに」という署名にペンを執る。名簿の前を見ると中部,関西方面からはるばるお越しの方もたくさんいらっしゃる。九州や北海道の住所もある。道灌は人気者なのである。


町の広報車が「不要不急の外出はやめましょう。」と紋切り型のお知らせをトラメから流して回っている。不要不急の旅人の立場は窮した。

それでも観光客のための駐車場は開いていた。品川ナンバーを確認しても係員たちは全身でウエルカムを表してくれたのでホッとした。ここに車を置いて自転車で史跡巡りに出ていいか尋ねるとにわかに大騒ぎとなった。ボクに教えてやろうと龍穏寺の場所や行き方を皆で討論し始めたのだ。

ありがとう。でもそれは綿密に調べて地図上でもシミュレーション済だから教わらなくても大丈夫

…とは言わない。ボディアクションつきの道案内に相槌を打ち,深々とお礼を言った。

「梅園も見てってくださいね。」
「は,はい」


というわけで予定外の梅園見学。梅はまだ8分咲き程度だったがそれでも花で煙るようだ。訪れる車が増え始め道路には車列が出来始めていた。園内には三脚を担いだ好事家の姿もある。



ちょうど日月がボクたちの休日だったが,何の気なしに気温が高そうな月曜日を選んで来た。平日にしてよかった。きっと日曜にはたいそう密な人出だったろう。



梅の下に丁寧に植えられているフクジュソウに朝日が美しい。車まで5DやLレンズを取りに戻るのも面倒なので,ミラーレスに望遠をつけてしゃがみ込んだ。



するとさっそく三脚を持ったお年寄りがすうっと近くにいらして花の撮り方を教えてくれる。うなずきながら拝聴するボクの様子がよほどおかしいのだろう,ドレミが肩をすくめて笑っている。



さてようやくチャリ活開始である。眉間にシワの自撮りは,朝日がまぶしいからであって機嫌が悪いわけではない。むしろ上々。



 駐車場に戻って自転車を下ろした。駐車場の係員さんたちに手を振って見送られながらの賑々しい出発となった。



越辺川沿いを南下して龍穏寺への山道に入る。いきなり正念場が来た。



川沿いのふもとから龍穏寺まで直線距離1.8kmで高度差115m,平均勾配6.4%。サイクリングではたぶんヒルクライムに分類されるだろう。



分かれ道で地図を確認する。

「右の道じゃなくてよかったね。」

だが目指す龍穏寺は右上に描いた集落よりずっと上であった。


つづら折りで引き離された。河口湖で圧倒してからわずか3か月。冬の間の運動不足がたたって,再び脚力でドレミに逆転を許した。負け惜しみではないが我がジャイアントの変速機が壊れていることも影響していると思われる。



「ベンチがあるよー。」
「きゅ,休憩だ!休憩!」

へたりこんでドリンクボトルの底を天に向ける。

 



龍穏寺は平安時代初期の創建,室町時代に入り扇谷上杉家によって曹洞宗に改宗された。1432年,太田道灌の父同真が境内に山枝庵砦を築くために建物や門を整備した。



移転や焼失を経て天保年間に再建されたが,1913年に再び火災で失われた。山門はこのとき罹災を免れた建造物で越生町の有形文化財に指定されている。



本堂の前に道灌公が立っていた。



銅像の脇でツバキの枝が揺れるのでよく見ると葉陰からメジロが覗いた。道灌公の家来のつもりなのだろうか。主人を守るように逃げない。



足もとには江戸城の石垣。破却された場所から寄贈を受けたとある。



脇の坂道をドレミが戻って来た。ボクが腰を休ませる間に墓石の並んだ広場に道灌公の墓を探しに行ったが見つからなかったようだ。



心という漢字の形を模した心池を渡って本堂に進んだ。



北側の斜面の下に標柱がある。矢印に従って急な石段を登ると寺を見下ろす高台に道灌公と父道真公の墓があった。



正確に言うと父太田道真の墓は確かにここだが,道灌は分骨埋葬されたとある。太田道灌は相州伊勢原で主君上杉定正によって暗殺された。



父子とも扇谷上杉家の家宰を務めた。実質的に扇谷上杉家,さらには山内家の隆盛は道真・道灌の父子によってもたらされたと言っていい。道灌は主家のために28年にも及ぶ享徳の乱を戦った。その主君に息子を殺されたのだから父道真の嘆きはいかばかりであったろう。



道灌が暗殺された2年後に道真も死去,二人は並んで龍穏寺に葬られた。



山門の上まで下っておやつタイム。

「シュウ,メジロが来てるよ。」

どうやらさっきの家来らしい。ボクは再びミラーレスに望遠ズームを装着して梅の枝にメジロを追った。


早春の香りに満ちた龍穏寺境内で過ごした1時間に出会ったのは,この小鳥の他にはやはり道灌の墓参に訪れたらしき初老の旅人ただ一人だけ。コロナ禍にあえぐ都心とは別世界だった。


少し遠回りして経蔵を見物した。漆喰壁に道元一行らしき僧を彫った彫刻が目を引く。経蔵内部は一般公開されていない。



境内の無人販売所。



何を買ったのかは帰ってからのお楽しみ。


寺を出て門前の集落まで下ると地元の人に声をかけられた。

「山猫軒ならこっちから行った方が楽だ。」

聞いてもいないのにネットで評判のカフェへの道を教えてくれる。どうやら越生の人は道案内が好きらしい。ドレミが会釈して聞いた。

「いえ,砦に行きたいのです。えっと…山枝庵。」

男は不思議そうにボクたちを見た。

「それならこっちでいいが,何も残ってないぞ。あの辺まで登らにゃあならん。」

そう言って山の上を指さした。


彼の言った通り道はタイヘンな上り坂になった。とてもペダルを漕いでは上がれない。自転車を引いて歩いた。ボクの腰は現在歩くことが難しい。ほとんど自転車に体を預けながら登った。



やがて砂利道となりそれもかなわなくなった。

位置関係から見て山枝庵の標高が龍穏寺よりも高いとは想像していなかった。グーグルアースで調べることもしていない。後で測ってみると龍穏寺山門下からの標高差は80mを超えていた。



山枝庵の手前で文字通り峠を越え下り坂になった。すいすい自転車で下れたかと言うとさにあらず。砂利道にタイヤが滑ってブレーキがかけられない。クロスバイクではオフロードを下れないことを知る。



山枝庵入口の標識にたどり着いた。ここより10分登ると書いてある。



20分と書いてあればあきらめたかもしれない。10分なら1分歩くごとに1分しゃがめば歩けないことはないだろうと考えた。



だが山の坂道は脊柱管狭窄症患者の腰には余った。気持ちは前に向かうが足が上がらない。一人では進めないボクの腰をドレミが後ろからずっと押し続けた。だから途中でドレミの方がもんどりうって転ぶようにへたりこんだ。



そんな足色でもどうにかこうにか10分あまり。森の中に広大な平坦地があった。現在は杉や落葉松が植林されているが元は切り開かれた造成地であったろう。太田道真が築いた山枝庵砦跡である。



地元の人が言った通り何も残っていない。だが,何よりこの巨大な元平坦地が往時を雄弁に語る。時代の分類で砦と呼ばれるが,ここにあったのは山城と呼ぶに近い規模だったと考えられる。太田道灌はここで生まれ,幼少期を過ごしたとされる。



全体の写真を摂ろうとすると林の中に何やら大きな白いものが打ち捨てられている。近づいて見るとトタン板だ。ひっくり返すと果たして砦の説明板だった。


砦跡を過ぎるとようやく道は舗装路に戻り,梅林の只中へと下って行った。


道灌橋を渡る。



健康寺(けんやすじ/けんこうじ)




1486年,太田道灌は親友万里集九を伴って故郷に道真の隠居所を訪ねた。本稿冒頭の詩はその様子を集九が詠んだ七言絶句である。6月のこととて一面の梅林はたわわに実をつけていただろうか。歌人3人は酒を酌み交わし歌を合わせたことだろう。しかし道灌はその1ヶ月後に暗殺されてしまう。



寺の背後を見上げてあっと驚いた。巨大な石垣が残っている。登ってみたかったがもう腰が言うことを聞かない。

健康寺は太田道真隠居所の比定地とされる。確かにこんな砦を越生に築いた武将が道真以外にあろうはずがない。



道灌が暗殺されたとき,万里集九も上杉定正によってしばらくの間監禁された。放免されたのちに梅花無尽蔵を著し「稀郭公」を収録した。歌会で詠んだホトトギスに何の意味を託したのだろう。定正の横暴を批判する世論だろうか。それともひっそりと亡くなった道真の無念の想いだろうか。



梅林の中を駐車場に向かったがたちまち迷った。越生の梅林はこのような個人の梅畑が連なってできている。舗装された農道を観光客が三々五々散歩している。なんとも長閑である。

直売所に寄って,ドレミがいつもよりうんとたくさんの土産物を買い,昼過ぎには越生の町を後にした。


早い時間に帰京できたので芦花公園のバイチャリに寄り,ジャイアントを修理に預けて帰った。自宅に着くと間もなく修理が完了したという電話が入った。変速装置の不具合はワイヤーが切れていたのが原因だった。

「ワイヤーを交換しました。こんなことなら待っていてもらったらよかったです。」

と店長が言う。この店は料金が良心的すぎる。前回チェーンを調整してもらったときは650円だった。今回の修理代がもし3,000円以下だったらお礼に越生土産をさしあげることにし,直売所で買った柚子胡椒を携えて自転車を取りに行った。1,150円と言われた。


休日の晩餐は龍穏寺のあの無人販売所で買ったふきのとうとタラの芽の天ぷらである。



お酒はその名もずばり「越生梅林」

すっきりした飲み口に龍穏寺で遊んだメジロを思い出した。